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詩集
鮎と車
 おーい。

父さんが車体の下から顔を出して、僕を呼んだ。
ひたいの隅に黒ずんだ機械油がついていた。

 や、覚えてるか、お前、ほら。

 どうしたの?

 昔あゆ釣りに行ったろ、琵琶湖。
 お前が小学生のころだ。

 覚えてるよ。

鮎釣りは父さんの趣味だった。
シーズンになると朝早くから家を出て、遊漁券を買いに行く姿を見た。。

 そうか、まだ覚えてるか。
 釣り方も教えたろ。
 それも覚えてるか?

 うん、覚えてる。

父さんは右手が不自由だ。
五年前、仕事中に小さな地震が起きた。
その時も今のように、父さんは車体の下にいたのだ。
揺れる地面の上でぐらついたジャッキが車を支えきれず、父さんの右手は車体の下敷きになった。

右手が使えなければリールは巻けない。
それ以来、あゆの話も、釣りの話もしなくなった。

 あのな。

 うん。 

 お前ももう大人だ。
 いつまでもこんな小さい修理工場にいてもつまらんだろう。
 こんな小さい設備で仕事してると、俺みたいに怪我するぞ。

父さんは言った。
耳慣れた、低くかすれた声だった。

 うん。
 父さん。

 なんだ。

 釣りに行こうよ。
 もうそろそろシーズンだろ。
 あゆ釣りに行こう。

僕の父は少し戸惑ったような表情を見せて、言葉を失っていた。
―お前ももう大人だ。
目の前ではなんともいえない表情の父が白髪の増えた頭を掻いている。
僕がもう一度口を開こうとすると、それを父さんがさえぎった。

 竿、まだあったかな。

 あるよ。

そうか、とだけ言うと、父さんは車の下にいそいそと戻っていった。
ひたいが汚れていること、教えるのを忘れたなと思った。
まぶたの裏で、きらきらひかる水面に細い竿が伸びていた。



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