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詩集
梅雨
罪悪感の強い子供だった。ずっと感じていた。きりきりと痛んでいた。膿がたまり、かさぶたもできず、痛みは消えることがなかった。人の目を気にした。
 時間の流れを感じることがなかった。一瞬一瞬、過程を重く思った。時間は何かで区切られていた。その区切りでベルが鳴った。けたたましいベルの音を聞き続けた。
 石を蹴り飛ばし、その石の削れた場所に心を痛めた。地面に落ちた石を笑うようにベルが鳴った。きりきりと足が痛み、雨が降った。
冷たい路面が濡れた。
 皆が笑っていた。それを目にした瞬間にだけ、安息があった。息をつくとすぐに誰かが首輪を引いた。強い力で引いた。
 言葉がわからなかった。いつからか、どうしてだか舌の動きが消えた。頬がひくひくと動いた。まぶたの上に汗が浮いた。体は知っていたのだ。
朗読することが好きだった。人が人に伝える言葉を自分の言葉のように話すことに喜びを覚えた。他人と他人の会話を聞き覚えて、反芻した。それは甘い時間だった。
いつか電車に乗った。誰もが透明な膜を持っていて、一人分の部屋に一人だけで入っていた。誰に何を伝えることもない空間で、ベルが鳴った。部屋の作り方を知らなかったのだ。
緑の山が流れ飛んでいった。窓には他人の部屋が反射していた。車掌がドアをノックして回った。ドアのない僕の部屋の前で、車掌が小首をかしげて財布を出すように求めた。
誰かが首輪を引いた。警戒しろと言うのだ。彼を睨めと叫んでいる。隣の部屋では平和な音楽が流れている。車掌が地団太を踏みながら流れ飛んでいった。
財布を持っていないだけで、この椅子に座っているだけで、戦争は起きる。平和な音楽だけでは何も解決しないのだ。
まぶたに汗が浮く。足のホイールが回っている。タイヤに引きずられるように外へ飛び出すと、そこには駅があった。似ているようで知らない駅だった。電車の通るレールが引かれている。鉄を溶かして作ったのだろう。楔を何本も打ち込まれ、血を流しながらレールが伸びている。
ハート柄の便箋で女の子が手紙を書いている。待合室の中は空調が効いていた。気温の高い無言の空間。ペンを走らせる音がひびく。彼女は僕の邪魔をしない。では僕は。
彼女の邪魔をしていないだろうか。僕がずらす足の擦れた音で、彼女の書く丸文字がひとつでも変わるとしたら。叫びそうになる。彼女は自分の意思で今朝もシャワーを浴び、服を着替え、朝食に何か食べ、ドレッサーに向かって化粧をして、香水を選んでここまで来たのだ。決断を繰り返して、ここに息づいている。僕がどうでもいい理由で足をずらし、その音でなにかが変わるとしたら。ベルが鳴る。
骨がきしむ。気温が高い待合室の中を、きしみが伝わっていく。僕は最後の邪魔をする。ドアを押して開いた。彼女はペンを止めていた。
対岸のホームに電車が止まっている。オレンジ色だ。この時間、ここにはオレンジ色の電車が止まっている。誰が知っていて、誰が知らないのか、それさえ誰も知らない。伝わらないからだ。ペンキがはげかけて、薄汚れていた。僕は覚えている。それに乗りこんだからだ。
山が遠い。レールが山すそから離れていく。ほとんど誰も乗っていない電車だった。アナウンスも無い。骨のきしみが止んだ。代わりに車体の揺れる音が木の無い世界の鳥みたいに回っている。どこかで携帯電話が振動している。誰かがいるのだ。この電車のどこか近くに。
会うこともなかった。息遣いだけが聞こえて、それもじきに消えた。電車は止まり、ドアが開いて空の向こうから硫黄のにおいがした。赤土がむき出しになった山肌が見えた。この線路は山を縫うように走っている。おそらく。
夜は暗いものだ。あまりにも暗いと不安になる。灯りを見つけて安心し、昆虫のように寄り付いていくとまた不安をおぼえた。光の下には必ず先客がいる。その場所を守るために、何か棘を持った生き物がいる。
切符を持たない人は改札を通れない。真っ暗な線路を歩き、柵をよじ登るしかない。足元でセミの弱弱しい鳴き声が飛んだ。秋が来る。
目の前に波止場がある。コンクリートがいびつに変形している。波が削ったからだ。人はいない。船があった。もやい綱で鉄の突起にくくりつけられていた。綱に釣り針がたくさん刺さっていた。
まぼろしのように寒い。肌と唇がざらついている。頭の上に石が乗っている。石は気圧と結びついて、首をぐいぐいと押した。こんなとき首輪は引かれない。首輪についた紐はだらんと垂れ下がったままだ。持ち手の輪は誰も持っていない。僕は一人だ。気付けば首輪は消えていた。潮騒が輪郭を持って山を砕いた。あの山もやがて雨になる。
歩いた。寒い道だ。
海沿いの道はとうに終わり、明かりのない農村の道を歩いた。笑いがこみ上げてくる。ペン一本で僕は何をする。これは甘い時間だ。待ち望んだ甘い時間だ。
馬鹿の乗るバイクの音も聞こえない。ひらひらした風が音も無く抜けていくだけだ。足は止まろうとする。涙が止まらなかった。
急に街灯が並び始めた。羽虫がびりびりと飛びまわり、僕はその下を歩く。見下されながら、生きるだけだ。虫は暗い空の鳥を見上げている。
眠気がひどくなってきた。体中のいたるところの穴から入り込んできて、僕をくるみ込もうとする。冷えたまぶたがあたたまってくる。この熱は手足から奪われたものだ。誰のものでもなく、この手足から。街灯のポールに触れると、かすかな震えを感じた。命だ。
朝になっていた。
清潔に髭を剃った老人が目に入った。近づいている。僕を見ている。家出か、と言った。綺麗な標準語だった。眠っているうちに僕の涙は乾いていた。
老人は船に乗るのだと言った。日が高い時間の船に老人はよく似合いそうだった。僕はそう言った。品の無いエンジン音の中で、彼は釣竿のリールを巻く。そうやって笑いながら家に帰るのだ。ピザ・トーストを一枚くれた。ふちの焦げをちぎって投げ、僕に渡した。
いつか海で会えるといいですね。僕は生のピーマンを噛み砕きながら言った。いつか魚になって彼に釣られ、彼は僕をびくに入れ、笑って帰るのだ。そしてピザ・トーストの隣に並ぶ。自分のあごを触るとざりざりした髭が伸び始めている。
風邪を引いたころに、ホテルの立ち並ぶ町についた。何かを望む人たちがたくさんあの中に詰まっている。ひとつひとつ鍵をかけて、ホテルは何かを守っている。ホテル前の道路を挟んで海があった。雨が降った。
砂浜に果物が転がっている。真っ赤なボール。何にやられたのか、皮がひどく傷ついている。黒ずんだところを押すと、じゅっと果汁があふれ、それは雨に溶けて砂に沈んだ。りんごには話さない。今までのこと。あの老人が船に乗るということ。あの晩泣いていたこと。
海に放り投げると浮き上がった。もう傷つくこともない。うまくやれば、ピザ・トーストの横に並べるかもしれない。雨で飛べないカモメが下手な笛を吹いた。
大きな生き物ほど小さな傷を気にしていた。そのにじんだ血を僕は舐めてきた。武器を握り締めたその生き物に睨まれながら、僕は舌を出した。そうして傷の治りを共に見ていたかった。話を聞くことはなかった。言葉がわからなかったからだ。壁の無い部屋に鍵をかけて、大きく息を吸って、その息の続くかぎり傷を舐め続けた。
真夜中に雨が止んだ。濡れないようにしゃがみこんで入った桟橋の下から這いでると、固まった砂浜があった。青い街灯が立ち並んでいた。格子で区切られたホテルの窓がひとつずつ光っている。
目の前に怪物がいる。命がより固まった、大きな怪物がいる。どれだけ巨大でも、それは生き物だった。傷は見当たらなかった。傷つくようなやわらかいところには鍵がかかっているのだ。窓が明滅して、我々は、と言った。守られている。鳥が飛べないほど雨が強くても、この生き物は守られている。
タクシーが止まり、スーツを着た女が入っていった。ドアが開き、ホテルマンが彼女を迎え入れ、にこやかに鍵をかけた。そうして守られている。傷つくこともない。波に揺られることさえない。
明日は二人きりで船に乗ろう。ベルが鳴る。
また雨が降りだした。梅雨の季節だ。



あきゅろす。
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