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二次創作/夢
泥濘の窓U






















目を開く。水音が耳に届く―微かに混ざる音は何かの金具が擦れ合っているのだろうか?
辺りを見回す。寺にもあった慈母観音像が目に入るが、こちらの方が年期が入っているように思える。時を重ねると表面に現れる柔らかな艶が良い証拠だ。


「目が覚めたか。施術は終わった」

「!」


頭上から響いた亜麻色の男―鬼の声に、篝はがばりと身を起こす。いつの間に意識を失っていた、何故殺されていない、男が親しげに話し掛けてくるのは一体何なのだ!!込み上げる様々な思念に急き立てられながら、篝は手を拭う鬼を鋭く見据える。刀は取られておらず腰にあることを確かめ、いつでも攻撃は可能だ―そう敵意を露にした。そんな女を気に掛ける様子もなく、丁寧に手拭いを畳んで着物の懐に仕舞う姿に余裕さを感じ、ひどく気持ちを荒立たせた…が。可笑しなことに気が付いてしまった。鬼の服装が和装になっているのだ。

(私が気を失っている間に着替えたのか?いや―他にも可笑しな点はある)

ここは何処だ!
常に冷静と判断される篝であったが、この時ばかりは混乱せざるを得なかった。だって、ここは地下ですらない。湿った土の感触はどこへやら、どこか光の届かない木造の室内で、畳の上に己は立っていた。夫婦の姿も、女の子の姿も、女の子を横たえていた台すら見当たらない。
鬼から目を離さぬようじりじりと後退していると、足元から衣擦れの音がした―何かがいる。


「…!?」

「お前の両親がお前を生かすことを決め、私はそれを承諾した。本来なら片方だけで足りるはずだったのだが…
ともかく、お前は先を生きるための命を得た。おめでとう、今日がお前の再生誕日という訳だ」


鬼の語り掛ける先は、己ではない。篝の足先の小さな影―ゆるりと身を起こしたのは、年端もいかぬ女児であった。
篝は驚きに目を見開いた。鬼が自分を居ないものとして話していることではない。自分が女児の気配に全く気が付かなかったことでもない。ただただ、女児そのものに驚いていた。

光を受けて緑に輝く黒髪、鬼を見据える深緑の瞳。そこに存在していたのは、間違いなく、小さい頃の己であったから(・・・・・・・・・・・・)だ。


「…父さんと母さんは……?」

「残念ながら死んだ。…助けた子を見殺しにする趣味はない、私と共に来なさい。悪いようにはしない」

「…………うん」


呆然とした様子の女の子は、鬼の呼び掛けにゆっくりと頷いた。その声には隠し切れない不安と落胆が滲んでおり、彼女自身両親が死ぬことを薄々理解していたのかもしれない。


「っ待て、」


色々と確認したいことはあるが、鬼が子供を傍に置くなど有り得ない。食用の備蓄とでも考えているのだろうか?何より己と思しき子供を、このまま相手に大人しく渡す訳にはいかなかった。鬼の元へ足を踏み出した小さな自分の肩を掴み、引き寄せようとして―…それは叶わなかった。掴まんとした手はするりと虚空を掻くのみだったからだ。

(触れられない…!?)

咄嗟に抜刀し鬼の首目掛けて一薙ぎするも、鋒は虚しく体をすり抜ける。目の前の二人には篝の伸ばす手も刃も触れられず、しかも様子から察するに篝の存在自体認識していない。この説明のつかない事態を引き起こしたと考えられるのは―…鬼の血鬼術以外にあるまい!


「なんと厄介な…」


そもそもここは過去の世界なのか?いやしかし、自分にはあの鬼と過ごした記憶など微塵も無い。ならば幻でも見せられているのだろうか。
早く此処から抜け出して、「山茶女」という女の子と夫婦を助け出さねばならないというのに。しかし現状ではこの世界に関する情報が少な過ぎて、どう脱出すれば良いのかも分からないのだ。ひとまず、何かしらの鍵を握っているであろう鬼と小さな己の影を追い掛けて、篝は部屋の外へと飛び出した。





* * * * * *





不思議なことに、この世界での時の流れは速かったり遅かったりする。一時は小さな己と鬼が手遊びする姿を小一時間見せられたかと思えば、瞬きの間に一ヶ月も経過していたことがある。そこで見る二人の姿はまるで本当の父娘のようで、ほのぼのとした家庭を覗き見させられている気分だ。―あの鬼はどうして、自分にこんなものを見せるのだろう。

それを理解したのは、小さな己が深く眠りに落ちた深夜…鬼が一人で出掛けた先で行っていたことを見てからだった。
いつも女の子の傍を片時も離れない男が、頼まれ事があると言って夜に出掛ける旨を小さな己に説明している。納得したのか迷惑をかけまいと思ったのか、女の子は素直に布団に潜り込んだ。柔らかな寝息が立つのを見届けて、鬼は身支度をする。手に持った革製のトランクケースには、掌ほどの小さなナイフや清潔な布などが詰め込まれていた。


「ああ、あなたが…!私はどうなっても良いのです、息子だけはどんな手を使っても助けてください!」

「無論のこと。しかし命に対価は必要だ…お前はそれで良いのだな」

「…はい」


辿り着いたのは、洋式の大きな屋敷だった。鬼を出迎えた屋敷の主人はひどく狼狽えた声であるのに、その表情は決意を定めているように思える。案内された窓の大きな部屋には、肌の青白い少年が月光に照らされていた。まるで陶器の人形のようで、血液が通っていることすら疑う。その呼吸は今にも止まりそうなほどか細く、頼りない。


「ここに座ってくれ。痛みもない、苦しみもない…後は全て望むようにする」

「ああ…!」


シーツに投げ出された骨と皮ばかりの息子の手を握りながらとめどなく涙を流し、屋敷の主人は遂に寝台の傍らにある椅子に腰かけた。鬼が着物の袖を捲り、爪から上腕まで橙色(・・)に染まった手をその顔に翳す。弧を描いた口中の呟きは空気にかき消え、男の目蓋はゆるりと閉ざされた。


「さ、施術の時間だ」


―そこからは、まるで夢のように時が過ぎていく。
鬼が手にした小刀は、少年と男の胸を寸分違わず同じ箇所の皮膚を切り開いた。その中から顔を見せた鮮やかな赤は、どくりどくりと拍動を続けている。男の胸から躊躇なく取り出された臓物は、鬼の手によって少年の弱々しい拍動のそれと取り換えられた。不思議と二人の体は血で汚れることがない。すでに動いていない少年の臓器は銀の取り皿に乗せられ、月明かりによって妖しい輝きを見せている。

篝は、その様子をただひたすらにじっと見つめ続けた。目を逸らしてはならない、寧ろ自分はこの行為を見届けなければならないと、根拠なく思ったのだ。
耳を寄せて拍動が正常なことを確認した鬼は、続いて小刀を己が腕に滑らせる。左、右と機械的なその動作を終えると、端から傷が塞がっていくものの、結構な量の血が流れ出ていた。その滴る血は、横たわる少年の開胸部へと染み込んでいく。完全に傷が塞がって血が止まる頃には、少年の肌は傷一つ無い綺麗な状態になっていた。部屋に入った時とは打って変わって、胸を大きく膨らませながら確かな呼吸をしている。ふと違和感を感じて観察すると、傷口があったであろう箇所に元々は無かったものが増えていた。

(あの胸の紋様は…)

―聖母マリア。処女懐胎によりイエス・キリストを産み落としたという、キリスト教の中でも重要な信仰対象である。
マリアが子を抱える姿を表した紋様が、少年の胸の上で存在を主張している。それは次第に薄くなり、体内に溶け込むように徐々に消えていった。

気が付けば、右胸の上を固く握り締めていた。知っている、あの紋様を私は知っている。何故?何故知っている、見たことがある…いや、いつも見ているからだ(・・・・・・・・・・)。例えば湯浴みの時、例えば鍛練の時。己の体温が上がって肌に赤みが差すと、穏やかな女の顔が浮かび上がってくるのだ―今まさに押さえ付けている、右胸の上に。


「これで、この子は先の世を見ることが叶った。例を言おう、ドナー…あなたという協力者が居なければ、彼は間違いなく死んでいた。あなたに、敬意を」


鬼はそう言って椅子に向き直り、両手を胸の前で組んで俯く。篝に「ドナー」の意味は分からなかったが、父が息子のために命を投げうったことだけは理解した。彼は息子に、自分の生を託したのだ。だらりと地に伸ばされた腕はもう二度と動かない、生という時計は止まってしまっている。

―…ありがとう、神様。

最期の言葉が、耳の奥で回っている。静かな部屋だからこそ、死の臭いが充満した部屋だったからこそ聴こえた、小さな祈りの声だった。


「これで取引は成立した。私は対価をいただくとしよう」


グチャリ、粘ついた水音が虚空に落ちる。銀皿にあった心の臓は鬼の口の中へと消えた。口端から鮮度を失った血液が流れ落ち、さらけ出された喉を伝っていく。隣の大陸では遥か昔、血による盟約を交わしたそうだ。決して破られることの無い約束だ。血による縛りは大きく、裏切れば神罰が下ると信じられていたという。

―あれを鬼の食事として数えて良いのか?当事者が望んだ結果だというのに、私に止める権利はあるのか!
鬼であるはずなのに、確かに鬼であるのに。誰にも認識されない女は、震える体を静めようと必死に己をかき抱いた。そうでもしなければ、目の前の鬼を鬼と思えなくなってしまう。斬れなくなってしまう!


「どうしてあなたは私を助けたんだ」

「優しくしないでくれ、人間に誠実であろうとしないでくれ」

「私の心をかき乱さないで…!!」





「迷うことはない、私のパンドーラ。私はお前の斬るべき相手だよ」























「優しいことだ。お前は昔からそうだったよ、愛おしい子…お前が私に気兼ねする必要はない」


山茶女と呼ばれた女の子は、ひどく穏やかな寝息を立てていた。代わりに、その両隣に横たわる男と女からは何の気配も感じられない。あの時と同じように銀皿に乗せられた臓物は、分かるだけで四つはあった。それだけ少女は手遅れだったのだろう―つい先刻までは。
ぐじゅり、べちゃ、ごくん。聞くに耐えない音が耳に触れる。嚥下が数回繰り返されると、皿の上は綺麗に空となった。それを見ていた篝は頭の痛みを堪えつつ、へたり込んでいた足を叱咤して立ち上がる。


「…私の体も、その子みたいに両親の一部が?」

「そうだ。顔も知らぬ親となっても、お前を生かすことを選んだ者たちだった」

「私のように、その子…山茶女のように、死を待つしか無かった子供らを、助けるために死の選択をした者たちが―この町で消えていった人々なんだな」


思い返されるのは、人通りの中を駆けていく多くの子供達。もしかしたらあの優しい少年も、この鬼に治療された者なのかもしれない―

あなたは鬼であるのに、何故喰らうために衝動のまま人を殺さないのか。

平静を保つことが出来なくなった篝は、もう形振り構っていられなかった。ただ知りたくて、彼が答えてくれるであろうと踏んで、問いを重ねる。篝が口を開く度にどこか嬉しそうにする鬼は、手にしていた銀皿を台に置いた。その拍子に、亜麻色が揺れる。


「お前が鬼である私の初めての患者でな…私は元々大陸から来た渡来の医者だった。鬼になる前からお前の両親には世話になったものだ。

小さく頼りない命であるお前を取り上げたのもこの私だ。産婆が間に合わず医学の心得があるからと、奴等は強引に私にやらせたのだ。専門が違うというのに、今思えば押しの強い…」


鬼は思い出した光景を辿りつつ、喉の奥で笑いを響かせて遠くを見た。


「感動した、おののいた!生命は掌で覆えてしまう程の大きさで、なのに生きようと大きな産声を上げていたのだ。ただ、お前は脆かった―…誰も悪くない、誰にでも訪れる不平等だ。お前は生きたいと日々叫ぶのに、それに反して内部の臓器たちは成長をやめていった。

お前を取り零したくなかった、大切になっていた!初めて手にした宝だと思った…!!
夫婦は何とかなると朗らかに日々を過ごしていたが、私には分かる。医者だからこそお前に幾ばくの猶予も残されていないことが―分かってしまったんだ」


ただ傍にいることしか出来なくなった頃、鬼は町で有名な医者となっていた。異国から来た言葉の達者なお医者様、貧しい者にもお優しい。人の知らぬことを何でも知っている、ひどく聡明な……
そんな噂を耳にしたのか否か、今となっては分からない。男の元を訪ねてきた、闇を纏って赤く光る瞳の…男が鬼となった元凶。その者には医者自体に隠し切れない嫌悪感があることを、体が作り変わった瞬間に理解した。嫌いな者には極力近寄りたくない、けれど目的のために駒は増やしたい…その感情の下に作られた鬼こそ、亜麻色の鬼である。

―腹は減るけれど、人はどこまで行っても患者だった。喰える筈もなかった。
血管の透けた柔い肌はひどく魅力的で、口内を満たす唾はとめどなく流れる。しかしどうしてこんなに愛おしい命を、己のために刈り取れようか。医者としての意地がそこにあった。

―鬼舞辻無惨という名は、すぐに口に出せるようになった。
己の支配下にあると信じて疑わないから、足元を掬われたことにも気が付かない。医者は患者のためならば、どこまでも冷静に酷薄になれるのだ。研究対象は、鬼に変異した生命に潜む監視細胞(・・・・・・・・・・・・・・・)。鬼に内在する沈黙の掟を破るために、亜麻色の鬼は己に手術を施した。死なないからこそ出来る馬鹿げた手術だ―頭蓋を割り、脳を開き、中枢神経をいじって監視細胞に伝達が行かないようにしたのだ。手術は成功した。

―自分の血の特殊性に気が付いた。
突然変異を起こす、周囲の細胞と同化する、何故か急激な自然増殖をする…これらは脆く儚い命を救うに足る特効薬と成り得る。鬼は歓喜した、己の持つ技術を使えばあの子は助かるのだと。直ぐ様夜の町を駆け抜け、興奮の面持ちで彼らの元を訪ねた。鬼は彼らと自分の時間感覚がずれていたことを、ここで目の当たりにする。


「吹けば飛ぶような軽い命は、まさに天に昇らんとしていた。夫婦はお前がもうその夜を越せないことを分かっていて…右手を妻が、左手を夫が握り締めていたよ。
呆然とする私を見て、夫婦は笑って語り掛けた。お医者様が帰ってきたよ、お前の大好きなお医者様だ、と―」


男が鬼になって姿を消してから、悠に三ヶ月の時が過ぎていた。寧ろ此処まで持ちこたえたことが、奇跡ですらある。力無く横たわる子の反応は鈍く、目蓋すらろくに開けられていなかった。ただお医者様という言葉を耳にして、僅かながら口端が上る。ヒュウ、と声にならなかったかすれた音が、己を呼んでいた。

まだ間に合う、神はまだこの子を召してはいない!そう叫んだかもしれない。鬼の存在、血の特異性、助けるための手術。それらを矢継ぎ早に夫婦に話すと、彼らは泣きながら笑った。願ってもないこと、私たちに覚悟は出来ている。この子に未来をください、と。


「もちろん鬼として弱かった私は大いに手こずった。私の血だけでは修復が追い付かず、終いには私の肉を無理矢理食わせる羽目になった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)…立場が逆転するとは、なんとも可笑しな話だな。彼らの助けなくして、お前の手術の成功は無かっただろう。しかし、本来なら片方だけで足りる筈だった…二人を犠牲にしたのは、偏に私の技術が足りなかったせいだ。

私を怨め、愛おしいお前。その資格がお前にはある」


―これを聞いて、どうして私があなたを怨めると思ったのだ。
川辺で御師様に拾われるまで篝は道端の塵のように生きていたが、それ以前の記憶は無い。だからこそ、両親には捨てられたか死別したと思っていた。愛されていた。それだけでも胸が打ち震えるほどだというのに、己を掬い上げた存在だというのに、亜麻色の鬼はどうして怨まれようとするのだろう。


「…あなたが私と共に過ごしている所までは、見た。ただ私にはその記憶が無い…それは何故?」

「お前が見たものは、私が封じ込めたお前自身の記憶と私の記憶を合わせたものだ―そうか、最後までは見ていないのだな」


鬼の呟きを境に、篝の視界は流れる記憶の渦で占拠された。
巻き戻る、巻き戻る。雪降る川縁で御師様に握られた温かな手、賑やかな笑い声響く道場と愛しい弟妹たち―橋の下で震えながら眠り、山の麓で食べ物を探してさまよう日々―胴の中央に大きな穴をあけた、亜麻色の鬼の姿。

世界に、飲まれる。





* * * * * *





「また遊郭に行ってくるよ…この所依頼が多い。心配せずとも朝になる前には帰る、だから安心しておやすみ」

「…うん、気を付けてね。先生、××のこと置いてかないでね」

「勿論さ、愛おしいお前」


部屋の片隅に置かれた慈母観音に祈りを捧げてから、鬼は女の子の額に唇を落とす。彼が幼少の頃から信仰しているという宗教の教典は、少女には少し難しい。けれども、布団に潜り込んだ少女に子守唄代わりに歌ってくれる讃美歌のメロディは、優しい響きで大好きだった。その日も低い声でゆったりと最後まで歌い終えれば、少女はぐっすりと夢の中だ。あどけない寝顔にもう一度口付けてから、鬼はいつも通り革製のトランクケースを手にして夜の町を駆け抜けていった。

遊郭に行く時は、必ずと言って良いほど小さな木彫りの慈母観音像を持参する。鬼の血の能力は絶大だが、心の傷までは癒せないのだ。最下級の女郎屋である切見世にはそういう者が多く、鬼が見た患者ばかりがいる。彼女たちには具体的な処置の施しようがないが、気持ちばかりの薬を煎じてやっていた。その代わり調査と銘打って血を拝借し、それを己の食事としていたのである。
心神喪失の患者は見るに堪えなかった。鬼は女たちの心の支えになれば良いと、力及ばぬと判じた患者には必ず木像を握らせている。地獄の中の、小さな救い。それはじわりじわりと波及していき、女たちの間に広がっていった。―優しさは時に仇となるという。噂は大物を釣り上げてしまった。


「困るなあ!ここで勝手をされては」


虹の如き妖しい輝きを放つ瞳には、上弦の文字が浮かんでいる。誰もおらぬ道の真ん中で、亜麻色の鬼は呆然と血を被ったような出で立ちの男を見上げていた。びちゃびちゃと酷い音で、夥しい量の赤が膝元と地面に広がっていく。


「うーん。気紛れとはいえ、俺が鬼にした子達が良い感じに根城にしてるんだ。別にそこまで影響はないと思うけど…俺のお株を奪うような手で侵食しないでくれると助かるなあ」

「…なん、だ貴様は」

「俺かい?散歩と食事がてら後輩の様子をうかがいに来ただけさ!優しいだろう?」


亜麻色の鬼は、鬼舞辻の支配を抜けた存在と言える。相手方も監視細胞が反応しないことから、弱い鬼が一匹死んだものとしか思っていなかった。だからこそ彼には何の介入もない。ただの一度も他の鬼と遭遇したことはなく、序列の有無ですら知らなかったのだ。
ただ分かるのは、目の前の男が手の及ばぬ強さであり、迂闊な行動は出来ないということであった。


「まあそういうことだからさ、君は此処から手を引いてくれよ!それなら…
んん?」

「っ」

「君もしかして…子供だ、女の子を一人囲っているだろう!甘くて良い匂いだ、すごく染み付いているよ。稀血では無さそうだが、とっても美味しそうだ」


それは実質的な脅しに等しい。男は鬼にずいと顔を寄せ、触れ合いそうなほどの距離で鼻をひくつかせる―にっこりと笑みを浮かべる姿はとても美しかった。豊かな涙袋が瞳を弓なりにしならせる。


「気が変わった!なあ君、その子を俺に」


―駄目だ、あの子だけは!!

男から飛び退き、腹の穴もそのままに夜道を駆け抜ける。血の臭いで追われないように上衣を穴に詰めながら、亜麻色の鬼はただひたすらに逃げた。そんな必死な様子に面食らったのか、虹の瞳の男はわあ!と声を上げて鬼の消えた方角を見る。


「逃げられてしまったなあ!まあいいか、暇潰しにはなったし」


ふむと顎を撫でて一つ頷くと、男は亜麻色の鬼を追うことなくその場から姿を消した。

男の気紛れのおかげで逃げおおせた鬼は、少女の眠る家の戸口を閉めて息を吐く。傷口がやっと塞がっていくのを感じ、治癒の妨げにならぬよう上衣を取り出した。息がひどく乱れ、血が足りていないのを感じる。無意識に持ち帰ってきていたトランクケースから、その日も頂戴した患者の血液を震える手で全て飲み干した。

(この傷が全て治った暁には…ここから拠点を移さなくてはならない)

―あの男の寄り付かないほど遠くへ。
荒い息を鎮めるべく、深く空気を吸うことを心掛ける。男は自分を追って来なかったとはいえ、完全に諦めたとは言えない。短い邂逅でも、気紛れな性質であることだけは分かるのだ。警戒は怠らない方がいい。


「…先生?」

「っ、!××…」


まだ月は空高くあるというのに、少女は僅かな異変を感じて目を覚ましてしまった。僅かな光差す暗闇の中、戸に寄り掛かって苦しそうな息を漏らす男の姿を見てしまったのだ。その腹にはぽっかり穴が開いており、向こう側の木目が見えている。足元には空の試験管が複数転がっていた。


「先生、お腹痛そうだよ…置いてかないって言ったよ……!」

「ああ…すまない、すまないな愛しいお前……だがちゃんと帰ってきたよ」

「うう、―っおがえりなざい…!」


ただいまと返すよりも早く、小さな体が広げた腕の中に飛び込んでくる。僅かな衝撃でも体に響くが、亜麻色の鬼はあえてそれを享受した。己の首に回りきらない小さな腕、柔らかな髪、温かな体。鬼としての己は食べたいと暴れるけれど、昔も今も医者である矜持がそれを許さない。―こんなに愛しい小さな生命を美味しそうなどと、気が狂っている!
そう思った瞬間、鬼は決意した。この子を自分の元に置いてはおけない、離れた所で幸せに暮らすべきなのだ、と。

それからは取り分け少女との時間を大事にしたし、少女も何かを感じ取っていたのか必ず鬼に寄り添ってその時を過ごした。穴は徐々にその幅を狭め、内蔵は完全な形を取り戻していく。人を食べていない弱い鬼だからこそ回復に時間はかかったが、一週間という期間は二人の別れには短いものだった。鬼の腹に傷痕すらなくなったその日、彼は少女に己が思いを言い含める。

お前を愛している
私を鬼でなく医者で居させてくれてありがとう
私が傍に居てはお前の未来は消えてしまう、だから離れねばならない
愛しているからこそ、お前を手放すのだ
ありがとう、××。私の最愛、私のパンドーラ!

その一つ一つに少女は頷いて涙を流し、自分も先生のことが好きだと言った。これからもずっと、先生のこと大好きだから―…そう言う健気な女の子を、亜麻色の鬼は強く強く抱き締める。その時、小さな手が頬に触れた。その手には美しく輝く緑がかった黒髪が握られている。息を呑んで小さな頭に手を伸ばせば、肩甲骨まであったそれは首もとまで短くなっていた。


「今までいっぱい、貰ってばっかりだったから…先生、これ食べて。私を忘れないでね、絶対だよ」

「嗚呼……!!」


鬼は泣いた。勝手にこちらが救われていただけだというのに、少女にとっては逆だという。己が与えられていたのだと言う。
両の手で絹糸の如き髪を受け取って、大事に懐に仕舞う。これはまだ食べない…少女の前では、ただの医者でありたかった。


「ありがとう、お前をずっと愛しているよ」

「ありがとう、先生。私ずっと忘れないよ」


鬼が少女の目を掌で塞ぎ、少女もそれに伴って瞳を閉ざす。それを境に、××という少女の記憶は蓋をされ、固く奥底に眠ることとなった。


「…すまない、私のことは忘れてくれ」


―でもどうか、次に会う時は人であるお前に殺されたいものだ。

それから鬼は、比較的治安の良い大きな街の入り口に、己の宝物を大切に包んで置き去りにした。ここからは運次第だが、近くには鬼が治療した者が住んでいる。保護を願う文には色好い返事があったため、心配はなかろう。それでも名残惜しく、幾度も振り返っては掛け布から覗く緑の輝きを目に焼き付ける。人であった己すら置き去りにするように歩む速さを上げ、最終的全速で森を駆け抜けた。宝物の場所を忘れるよう、土地勘の無い場所を幾つも幾つも走り続けた。

幾日移動を続けただろう?
山中にあった洞穴で身を休ませていた鬼は、ふと思い起こして懐をまさぐる。幾重にも包まれた布を取り出して丁重に剥いでいけば、緑の輝きが目に飛び込んできた。おそるおそるその糸束を口に含み、ゆっくりと噛み締めながら嚥下する。それを数度繰り返した末に薄い橙の腕は朱に色を変え、毒々しく肌を彩った。

この日から、彼の鬼としての生が始まりを迎えたのだ。






















「…分かってないな、先生」


乾いた笑いが漏れ出る。篝は台の向こうに立つ男を見つめて、全てを思い出したのだともう一度笑った。


「どうしたって私はあなたと居たかったんだ。先生、人を食べていなかったろう…それで術のかかりが甘かった。私はあなたが取り計らった人の家から飛び出して、ある人に拾われるまでその日暮らしをしていたよ。さまよう日々の中で、あなたへの思いが溢れ落ちて消えていくのがひどく怖かった…
あなたの気遣いを台無しにしたのは何故だと思う?」


再会を喜んでいた鬼の表情は、驚きに満ちたものに変わっていた。己の愛し子は、太陽に満ちた世界で幸せに暮らしているものだと信じ切っていたからだ。


「傍に居られないなら!!それが許されないなら他の愛はいらないって、その想いだけが強く残っていたからだ!!!!

先生…私は……××は、置いていかれたくなかったんだよ…………!!!!」


滲む世界の端で、亜麻色が動揺を露にしている。深緑の瞳がゆらりと揺らぐのを見て、鬼はひどく狼狽えた声を上げた。


「私が、私が傍に居ては、お前が危なかった!!あの男にはどうしたって勝てない、愛しいお前を奪われてしまうと…そう思ったんだ」

「…知っていたよ。私が言っているのは××の感情だ」


でも、と女は言う。それでも、言いたかった。言わねばならなかった。


「―…私、あなたの子供でしょう?我が儘言うくらい許してくれないか、父さん」


これは今しか言えないことだ。あなたはそうと決めたら二度と覆すことはないって、私はよく知ってるんだ。そう続ける女を見つめる鬼の目に、女とあの日の少女が重なって映る。男は理解していた、少女がひどく聡明な子であることを。それ故に、今彼女が駄々を捏ねるように叫んでいる理由も理解してしまった。
だからこそ鬼は膝をつき、懺悔するかの如く胸の前で手を組む。


「―浅ましい私を許さないでくれ、愛おしいお前……お前を手放した私は、もう医者擬きの鬼でしかない。神の救済の真似事をして、幾人も腹に納めてきた」


隠し切れない喜びを乗せて、震える声を吐き出して、鬼は歪に笑った。藍、紫、黒と、感情の揺らぎに呼応して闇夜の瞳が目まぐるしく色を変える。


「鬼らしい鬼になれば、人らしい人に育ったはずのお前が殺すに足る存在になれる(・・・・・・・・・・・・・・)と…そう考えて生きてきた!!私はずっと、あの時からずっと、お前に殺されたくて堪らないんだ…!!!!」

「…父さん」

「お前が居なければ医者にすらなれない、いや、私はもうずっと前から死人だ。終わっていたんだ…過去の遺物だ。
お前を苦しめる選択しかしない私を怨め!存分に怨んで、怨んで、怨んで、そして―

―他でもないお前が、私を終わらせてくれ」


新たに拠点にしたかつての地下礼拝堂は、ひどく使い勝手が良かった。己が信奉していたこともあり、キリスト教を隠れ蓑に、子の治療を親に持ち掛けては施術するということを繰り返した。その間、彼はドナーとなった親を片方残しては食べ、鬼として成長を続けていく。それでも、いざ鬼らしく幼子も丸呑みにせんと伸ばした手は、いつだって空を切った。愛し子の顔が頭を過って、子供だけはどうしたって食べられなかったのだ。
ならばと治療を望む人を次から次へと絶え間無く呼び寄せ、大人の男を、女を、数え切れないほど喰らってきた。彼が太陽に焼かれて自死することを選ばないのは、己にすがり付いて涙を流す小さな温もりを覚えていたからだ。ならばと、鬼は喰らうことをやめない。全ては鬼らしい鬼になるため…鬼として愛し子に殺されるためにしていることだった。勿論、成長した女が鬼の元を訪れる可能性が低いことは重々承知の上。万が一女と再会したとして、鬼の望み通りに殺してくれるとは限らない。

だが、男は知っている。彼女はひどく優しい子で、聡明な子だ。今そうであるように、人の気持ちを汲み取ることがとても上手なのだ。
そして、鬼は知っている。記憶の蓋を開けてしまえば、優しい愛し子が取る行動はただ一つであると。


「ああ、とても酷い…愛しい私の…かつての父。私は今、悪鬼を滅殺すべく組織された鬼殺隊という所に属しているんだ…こんなにお誂え向きな展開があるか?」


始まりは、尊敬する御師様をこの手で、この刀で斬り裂いた…朝焼けが美しかったあの日。彼は生きる術を教えてくれた男だった。
これからは、己を愛し続けてくれた男。鬼らしく罪を重ねて己を待ち続け、遂に本懐を遂げようとしている男だった。


「…恐らく、私はあなたの言う"人らしい人"になったんだろう。あなたとは正反対の存在に」


腰に据えた業物の柄を、血が滲むほど、柄巻の目が分かるほどに強く握る。


「ならば、私がすべきことはただ一つ
―鬼を斬ることだ」


女が鯉口を切ると同時に、男は組んでいた手を膝に据えて頭を垂れた。二人を阻んでいた台の向こうへ足を踏み出せば、もう戻れない。篝は息をすうと吸い込み、礼拝堂全体に響くほど大きな声を腹から出した。


「私は鬼殺隊士、階級は甲。名を篝楪と申す者!
鬼よ、お前の罪は濯がれない!!お前が喰らった中には未来を描く力ある人が多く居た筈だ!!なればこそ、私は…鬼殺隊の剣士たる誇りを以てお前を斬る!!!

だが聞け、鬼の中に残るかつての父よ」

「あなたの手で未来を掴んだ者もまた多く居る…!!誰もがあなたを忘れようと、私だけは、今を生きる私こそは、あなたのことを覚えている」

「ありがとう、父さん!!両親の望みを叶えてくれて!!!!ありがとう、私に未来をくれて!!!!

ありがとう、私は心置きなくあなたを斬ることができる」


―さようなら!

―…さようなら、××。ありがとう、篝楪。


体のほどけていく様を見つめながら、女は記憶の中の優しい子守唄を口ずさむ。あなただけに捧げる讃美歌―アヴェ・マリア。





* * * * * *





「礼拝堂に潜んでいた鬼は討伐完了、とのことだよ」

「…お館様、彼女は他に何と?」

「最低限の後処理は済ませたから、被害者の総数などの調査は隠に任せるとある。流石だね、君の友人は」

「はい、自慢の友です」


鎹烏により運ばれてきた文を読む男は、傍に控える部下へ声を掛ける。紫の香りを纏う女―胡蝶しのぶは目礼しつつ、内心では友人が無事任務を終えたことに安堵した。無意識に強ばっていた肩を下ろして、上司の次の言葉を待つ。


「…どうやら彼女は横須賀にはもう居ないようだ。遊郭を根城にしている鬼が、上弦の可能性があると掴んだ―大きな怪我もないから、遊郭に潜入した天元たちの加勢に向かうと書いてある」

「!
…それでは、今はもう現地に到着したものと見てよいでしょう。お館様、上弦ともなれば死傷者の発生が見込まれます。私は直ちに準備に取り掛かりたく」

「そうだね…しのぶ、彼らはきっと大丈夫だ。蝶屋敷での受け入れの用意を頼むよ」

「御意」


逸る気持ちがありながら、胡蝶はそれを見せることなく静かに退出した。上司の手前ということもあったが、一番は友を信頼しているからに他ならない。彼女は己を裏切らない―ならば自分にできることをやるだけだと、胡蝶は屋敷への帰路を急いだ。

胡蝶を見送ったお館様と呼ばれた男―産屋敷耀哉は、一つ二つと喉を鳴らし、堪えていた咳をする。口を押さえた手には何も付いていなかったが、舌の上には錆び付いた味が広がっていた。


「…苦しい任務だったようだね、楪」


産屋敷が手にする文には、現状報告と調査報告が纏めて記されている。彼は篝が上弦と交戦する可能性をわざと胡蝶に伝え、退出するよう誘導していた。調査報告には、誰にも明かしたくはなかったであろう内容が記されていたからだ。それでも組織に所属する以上、報告の義務が生じる。痛む胸をそのままに誠実な報告をした篝の心情を、産屋敷耀哉は慮った―…ただそれだけのこと。





【津見台山(横須賀)ニ於ケル任務ノ調査報告】


任務状況: 鬼ノ討伐完了、生存者(女児)一名保護済

現地詳細: 横須賀市内カラ程近イ津見台山中ノ寺ニ、地下礼拝堂ノ入リ口デアル枯レ井戸アリ。地下礼拝堂ハ山全体ニ及ビ、部屋数十五、ソレラヲ繋グ通路ハ全体把握不可。部屋数ハ更ニ増エル可能性アリ。子供ノ治療ニ使用シタ部屋ハ一ツノミ、長年使用シタコトデ山ノ植物ニ異変発生(後詳述)。近年ハ地元ノ者デハ無イ人々ノ失踪ガ相次イデ発生、把握シタ限リノ総数ハ千数百余人。




鬼ノ能力: 鬼ヘ変化スル前ハ医者デアリ、大陸カラノ渡来人デアルトノ発言アリ。亜麻色ノ髪ト闇夜(藍・紫・黒)ニ輝ク瞳、爪先カラ上腕ガ朱色ニ染マッテイルノガ特徴。鬼ノ血ニハ突然変異、周囲ノ細胞トノ同化、急激ナ自然増殖トイウ医療ニ適シタ特性アリ。詳細ハ不明、 鬼ノ血ヲ体内ニ取リ入レタ人物ノ操作ガ出来ルモノト推測(例・損傷箇所の自己修復機能ノ異常増幅、記憶ノ封印又ハ解放 他)。手術室トシテ使用サレタ部屋ノ土ニハ鬼ノ血ガ長年ニ渡ッテ多量ニ浸透、山ニ自生スル橘ガ果実ノミ枳ニ変ズル異常生態ニ発展サセタモノト推測。大陸ニ「橘化シテ枳トナル」トイウ故事アリ。鬼ノ出生地トノ関連ノ可能性否定出来ズ(枳ハ大陸ノ大河・長江付近ガ原産トノコト)。

捕食方法: 子供ノ治療ヲ理由ニ両親ヲ誘キ寄セル手段ガ主。信奉者ニハ医祖様ト呼バレル。子供ノ治療ハ完璧ニ行ワレ、死ノ間際デアッテモ蘇生ヲ可能トスル。子供ノ失踪記録ハ無ク、捕食対象ハ大人ノ男女ノミ。山ノ麓ノ市中ニハ、片親又ハ孤児ノ子供多数アリ(要調査)。




秘匿情報: 現在篝楪ト名乗ル隊士トノ関係ヲ以下ニ記ス。
鬼トナル以前ノ男ガ町医者ヲ勤メタ○○町ニテ、男ト篝楪ノ両親ガ出会イ親交ヲ深メル。篝楪ノ誕生時ニハ、産婆ガ間ニ合ワズ男ガ立チ会イ取リ上ゲタ経緯アリ。… …篝楪ノ治療ガ鬼トシテノ初ノ治療。篝楪ノ両親ハ合意ノモト臓器提供者トナリ、落命。孤児トナッタ篝楪ヲ鬼ガ養育、数年ヲ過ゴス。

(篝楪ノ治療ノ際ニ血デハ治癒ガ追イ付カズ、鬼ハ己ノ肉ヲ食ワセテソノ場ヲ凌イダ。ソノ影響ハ篝楪ノ自己修復機能ノ高サニ現レテイル。
(例・先ノ任務ニ当タリ、左肩上部ノ肉ヲ三割ホド損失。通常ナラバ抉レタママ表面ヲ皮膚ガ覆ウ形デ修復サレル筈ダガ、負傷以前ト変ワリ無イ見タ目デ修復サレテイル。コレハ細胞ノ異常増殖ニヨリ肉ガ新タニ構成サレタ状態ト推測サレル。タダシ傷痕ハ残ッテイル。))
(鬼ハ遊郭ヘノ治療活動ノ際ニ格上ノ鬼ト遭遇、遊郭ヲ根城ニスル鬼タチノ存在ヲ知ル。格上ノ鬼ハ匂イカラ篝楪ガ女デアルコトヲ察知、「稀血デハ無イガ甘イ匂イ、美味シソウ」トノコト。女ヲ好ム鬼ト推測。格上ノ鬼トノ遭遇ヲ切欠トシ、鬼ハ篝楪トノ離別ヲ選択。記憶ノ封印ヲ行ッタ後△×街ノ入リ口ニ置キ去ル。)…

…横須賀ヲ拠点ニシテ以降、本格的ナ人ノ捕食ヲ開始。被害者ノ数ガ急増シ、鬼殺隊ノ調査網ニ掛カル迄ニナル。鬼カラ「鬼ラシイ鬼トシテ、人ラシイ人ニ成長シタ筈ノ篝楪ニ殺サレタイ」トイウ趣旨ノ発言アリ。…

…鬼ノ討伐後、手術室ノ調査ニヨリ複数ノ手記ヲ発見。コレマデニ治療シタ子供ト臓器提供者トナッタ者、捕食シタ人々ノ名ガ分カル範囲デ記サレテイルコトヲ確認。更ニ遊郭ニ潜ム鬼タチガ序列ノ高イ存在デアロウコト、鬼ト思シキ人物ノ噂ノ詳細ガ記サレタ物モ同時ニ確認。後処理ト事後調査ヲ担ウ隠ニ譲渡シ、事実確認ヲ行ウヨウ指示。篝楪ニ宛テタ手記モ発見シタガ、任務ニ関係無イト判断。手記ノ内容ノ記述ハ省略スルコトトスル。…





* * * * * *





篝が遊郭に到着した時には、事は全て終わっていた。その目に飛び込んできたのは、激しい死闘の名残がある崩壊した建物の数々。目を閉じて集中すると、消えかけの鬼の気配を二つ―弱々しい拍動を囲む三つの気配―そこに近付く弟子と無害な鬼の気配。残り二人の弟子もまた問題無さそうである。ひとまず人の多い方へ向かおうと把握した方向に駆け出して見えたのは、何故か焚き火よりも激しく燃え盛る宇髄の姿だった。彼の周囲には以前嫁と紹介された三人の女の姿も見えるが、燃え上がる夫に混迷を極めた様子である。


「…宇髄殿は火葬されている最中と見てよろしいので?」

「ンな訳あるかァ!!!!

っておま…篝じゃねえか!怪我はもういいのか!?」

「私のことよりも今は貴殿ではありませんか…?」

「あ?」


炎に巻かれている上に片手を失っているというのに、宇髄はひどく元気な突っ込みを入れてきた。それにしぶとく生き残る男の生命力の強さを感じて、篝は一つ安堵の息を吐く。不思議な炎の出所は、屈強な男の傍らに覗く小さな頭―竈門禰豆子であろうことにも、今更ながら気が付いたのだ。炎が体に吸収されるようにかき消えたその時、宇髄の気配が急に力強いものに変わる。―彼女の血鬼術の効果が現れたようだった。


「一体どういうことだ?毒が消えた」

「天元様っ…!!」


夫の死に様を看取る心積もりでいた妻たちは、感涙に咽びつつ満身創痍の夫に飛び付く。安堵の空気が漂う中、妹に寄り添っていた弟子の一人…竈門炭治郎が宇髄に妹の血鬼術だろうと確証のない予想を述べた。


「多分、禰豆子の血鬼術が毒を燃やして飛ばしたんだと思います。ただ傷は治らないので動かないでくださいね」

「おお…こんなこと有り得るのかよ、混乱するぜ」

「宇髄殿、あなたはただでさえ片手を失っているんだ。炭治郎君の言う通り安静にしていた方がいい…炭治郎君、君もだぞ。また無茶苦茶したみたいじゃあないか」

「…はっ!篝さん!?何故ここに…!!!
えっ怪我は、もう良いんですか!?」


身動ぎをして妻の背に手を回す男を呆れた目で見ていた篝は、それ以上の無理をしないよう口を挟んで釘を指す。ついでに弟子にも叱責を飛ばせば、炭治郎はさも当たり前のように場に馴染んでいた師匠の存在を改めて認識し、飛び上がらんばかりに驚きの声を上げた。


「ふふ、怪我は完治しているよ。全く君たちときたら…自分の方が重傷も重傷だというのに人の心配をするんだからなあ。

私は増援のつもりで此処に来たのだが、必要無かったようだ。まあ被害確認や事後処理は私が受け持つから、お前たちは体を休めることに専念しなさい」

「…篝さん!俺は鬼の頚(くび)を探しに行きます」

「いやいやお前も動くなよ…死ぬぞ」


宇髄が諫めるが、炭治郎はこうと決めたら譲らない聞かん坊である。引き留めようとするのは心配してくれているからだと理解していても、己の目で確認しなければ気がすまなかった。行かせてください、と眼差しは雄弁に物語る。


「…仕方あるまい。妹に背負って貰いながら行きなさい、負担をかけるようなことはしてはいけないよ。
宇髄殿、伊黒殿も此方へ向かっていると聞く。もう暫く辛抱していただきたい…私は瓦礫の下敷きになった者が残されていないか、確認してこようと思います」

「!ありがとうございます!!
禰豆子、頼むな」

「む!」

「おー、俺の嫁が逃がしたから大丈夫だとは思うけどよ。頼むわ」


困ったようにため息を吐いて、炭治郎に条件付きの許可を出す。篝は続いて宇髄に事後処理を行うことを報告し、己も単独行動の許可を得た。そうして炭治郎は妹におぶられながら鬼の元へ、篝は遊郭全体の状況確認へと向かったのである。

瓦礫を退ける―女郎と男が抱き合うようにして死んでいた。鬼に直接殺された訳ではないが、鬼殺隊と鬼の戦闘に巻き込まれて亡くなった命だからこそ誠実に対応せねばならなかった。恐怖に見開いたままの瞳を閉ざしてから静かに手を合わせ、現着した隠たちに遺体の回収を頼む。


「後で身元の確認をしなければならない。瓦礫が比較的少ない広い通りがあったはず…そこに彼らを出来るだけ集めてくれ。遺族が見付けやすいように」

「はっ」


いつだって、何度見たって、死というものに慣れることは無いのだろう。いつか己にも訪れるものではあるが、一体自分は死に際に何を思うのだろうか。考える暇も無いほど一瞬で死ぬのだけは嫌だと―篝はそう思った。
遊郭を一通り見て回り最後に辿り着いたのは、暗いあばら屋が建ち並ぶ一画だった。戦闘の中心地からは離れていたからか、それらの建物は粗末な造りではあっても倒壊している様子はない。ここは亜麻色の鬼の記憶にもあった、最下級の訳ありの女郎たちが集められた―切見世と呼ばれる場所。中を覗いてみるが、人の姿は無い。戸を開けて部屋を一つ一つ確かめていくと、乱れた布団や放られた履物、水の張られた桶等が目に映る。着の身着のまま逃げ出したのであろうことが察せる有り様である。


「…床の板の継ぎ目、古いものと新しいものが組み合わさっているのか」


布団の下から覗いていた床板を注視すれば、ほんの僅かな違和感があった。床底に何かを隠していたのだろうか…そう思い、継ぎ目に指を差し込んで新しい方の板を持ち上げる。すると、浅く掘られた土の中にぼろ布の塊があった。身を屈めてそれを取り出してみるとしっかりとした重さを感じる。何かを布で包んであるようだ。幾重にも巻かれた布を一枚、また一枚と剥いでいけば、柔らかな慈愛の笑みがそこにはあった。


「慈母観音像…!」


聖母マリアの代替は、年を経た木彫り独特の艶めきを放つ。細かい傷はついているものの、大事に大事に磨かれて時を重ねた証拠だった。
吸い込まれるように慈母の微笑みを眺めていると、壁の向こうから微かな音が耳に飛び込んでくる。その弾みで顔を上げて咄嗟に気配を探れば、か細く揺らぐ存在を察知した。何故気が付かなかったのかと歯噛みし、包み直した木像を元に戻してから隣の部屋へと進む。所々劣化して穴のあいた戸を潜れば、そこには布団に力無く横たわる女がいた。目は落ち窪み、唇は皮が裂けて血が滲んでいる。粗末な布の隙間からは、骨に皮がまとわりついただけの腕と足が覗いていた。


「…まりあ様ですか……?
外は騒がしかったけど、静かになりましたね…遂にお迎えが来たのでしょうか…………」


女が確かに「マリア様」と言った瞬間、篝はびくりと激しく肩を震わせる。何も彼女に掛けてあげられる言葉が見つからなくて、床よりも冷たい指先を両の手で包むように持ち上げた。僅かに間を置いて、女は虚ろな瞳から雫を落とす。


「……あたたかい…。まりあ様では無いのね…そう……でもどうか聞いて頂戴、知らない誰か。彼の方は…死にゆく人に、祈りを捧げてくださる…祈ってくださるのよ………」


一人で無いことがどんなに心強いことか。長く息が続かないのか、女は時折沈黙を挟みながら言の葉を紡ぐ。力を振り絞って布団に隠れていたもう片方の手を出すと、握っていた小さな塊を差し出して受け取ってくれと女は言った。


「…昔に、とても優秀なお医者様が、来られていたそうよ……。その方は私たち日陰者にも、優しくて……一人一人に、この木像を誂えてくださったの…………。いつからか姿を見せなくなってしまったそうだけど…彼の話は、今も、昔も、私たちの救いだわ………!」

「だからあなたが受け継いで、私たちの神様を………絶やさないでね、どうか」


意味もなく口を開いては閉じ、空気を呑んだ。胸が苦しくて、熱くて、どうしようもなかった。
限界を迎えたのか、女の指先から力が抜けて木像が布団の上に転がる。それを拾い上げて、握っていた女の手ごと額に押し当てる―まるで祈りを捧げるように。


「知っている…っ知ってるんだ、その医者を…!良かった、彼は死んでいなかった(・・・・・・・・・・)……私の記憶の中でしか生きていないものだと………!!」


女から返答はない。ただ安心したように微笑んで、穏やかにこの世を去った。苦しかったろう、悲しかったろう、色々あったのだろう。だというのに、せめて看取ってやろうと寄り添った篝からすれば、逆に目の前の彼女から最高の贈り物を渡された気分だった。


「良かった…っ!!ああ、本当に……先生………父さん……………っ」


―聖母に雨が降る。

豊かな慈愛の眼差しは喜びに咽ぶ女を見据え、仕方ないなと微笑んだ。















誰が為の讃美歌篇 了

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あきゅろす。
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