二次創作/夢
赤い糸は誰にも繋がらない(三輪成り代わり)
ギチ、と鋭い歯が首元の薄い皮を突き破って音を立てた。
「…っ、」
「オイ、人の話聞いてんのか」
「す、みません」
彼のくせ毛が肌をくすぐり、朔はその感覚に首をすくめる。
その歯も大概であるが剣呑な光を放つ瞳は更に鋭く、朔の目をとらえて心の臓さえも冷たく震わせた。そらすことすら許さないその眼光に朔は息を飲み、横たわるベッドのシーツを握り締める。いつもきっちりと閉めているシャツは乱暴に前を開かれており、シンプルな下着が顔を覗かせていた。
ただ己を見つめ返すだけの彼女に、影浦は苛立ちを発散するように小さく舌打ちをする。
「お前はいつもそうだな」
「…いつも、とは何でしょう」
彼がつけた歯形は、朔の人形のように白い肌の上に点在していた。その中には血がにじんでいるものもあり、先程噛み付いた箇所もその内の一つである。
長いこと重なっていた目をそらした影浦は、再び首元に顔を埋めた。今度はその歯を突き立てる事無く、痕に滲む赤い雫を舐めとっていく。一舐めしてまたその赤が滲んでくれば、彼は傷口を抉るようにして舌を往復させた。
痛みを更に与えるような血の拭い方に、朔は思わず肩を震わせる。シーツを掴んでいた手を浮かせてその体を押しのけようとすれば、それは呆気なく押さえつけられてしまった。
シングルベッドがギシリ、と音を立てる。そんな悲鳴に構うことなく、影浦は鼻が触れ合う程の距離まで朔に顔を寄せた。
「痛ければ痛いほど良いんだろ、三輪」
「…影浦先輩」
闇を連想させる真っ黒な髪は白いシーツの上に散らばり、朔が動くにつれてさらさらと流れる。ゆっくりと二、三度瞬きした彼女は、今度は自分から影浦と目線を合わせた。
「出来る限り、痛くしてください」
影浦は、三輪朔という人物がよく分からなかった。
彼は“感情受信体質”というサイドエフェクトを持つ為、幼少期に良い思い出を持たない。只でさえ多感な時期なのに、自分に向けられる感情が何となく分かってしまうのだ。元々の性格もあってか、友人と呼べる人物はほとんど居なかった。
今では村上や荒船など気兼ねなく話すことのできる仲間がいるが、やはり煩わしいものは煩わしい。自分の順位が上がれば上がるほどに知名度も上がり、周りの目も更に集まる。好奇や妬みの感情はチクチクと彼の肌を刺激し、気分を悪くしていくのだった。
そんな時に、朔と出会ったのである。
人目を避けるようにして通路を歩いていた彼は、視界に入った自販機に気がついた。喉が渇いた、と何となく思っていたので丁度良いタイミングだったのだ。ポケットに無造作に突っ込んだままだった小銭を手で遊びながら、その目的に近付く。と、彼の目に小さな革靴が飛び込んできたではないか。それは自販機の向こう側から伸びており、どうやら人―恐らく女―が設置された椅子に座っているようだった。
(マジかよ…)
ぼさぼさの頭に鋭い眼光は、初対面の人物…特に女に怖がられることは必須だ。内心その場を離れたい気持ちで一杯になった彼だったが、小銭をジャラジャラと弄くっていた手前立ち去るのも何か癪である。
結局、彼はその小さな革靴の主を気にしないことにした。小銭を投入して列ぶ商品の中から一つ選び、ボタンを押す。そうして落ちてきた缶を取るため屈んだ彼は、ふと妙だと思った。
―何も感じない。
自分の存在は絶対にそこに座る女に認識されているはずである。それならば悪意や好意で無くとも、何かしらの思いは感じて然りなのだ。
彼は信じられない思いでその女を見る。近距離で見たのは初めてだったが、その顔には見覚えがあった。最近噂でよく聞く一つ年下の少女…三輪朔がそこに座っていたのである。
誰かがその美しく棚引く黒髪を見る時は必ずモニターの向こう側であり、訓練をしていない時は無い。訓練記録に最も多くその名を残している、生真面目で固い表情の少女。
そんな噂を持つ彼女は、両手でコーヒーの缶を持ちながら身動き一つしなかった。しかし横から一向に立ち去ろうとしない男を不思議に思ったのか、伏せていた目を上げる。
目があっても猶、彼女から何かしらの感情を向けられる事はなかった。
一本一本が艶を持つその黒をシーツに散らしながら、少女は緩やかな呼吸をする。その赤みがかった瞳は瞼で覆われ、その美しい輝きを見ることは出来なかった。
そんな彼女の頬に掛かる髪の毛を払って、影浦はまじまじとその顔を眺める。驚くほどに白い肌は柔らかく、彼の鋭い歯で簡単に食い破ることが出来るほどだ。今はタオルケットでその肢体を覆ってはいるが、首元や肩だけでなくあらゆる箇所に噛み痕がついていることだろう。それに言い知れぬ気持ちを抱きながら、彼は赤く色付いた唇をなぞった。
その小さな口が紡ぐ言葉には、主だった色がない。強い感情が乗っていない。それが妙に気持ち悪くて、気になって仕方がなかった。彼女とて人間なのだから、少なからず感情は持ち合わせているはずなのに…。たまに肌に感じるものは、戸惑いや懇願といったものばかりである。
まあこれでも進歩した方か、と彼も眠る少女の傍らに身を投げ出した。一人用のベッドで二人が横たわれば、当たり前のように幅が足りない。彼女の体が落ちないように引き寄せた彼は、小さな頭に顔を寄せて息を吸った。自身の頭の下に腕を置いて枕代わりにし、そっと瞼を下ろす。
「お前がいつまでたっても俺に何の感情も抱かねーって事だよ」
―それは先程霧散したはずの、彼女からの問に対する答えだった。
くあ、と大きく口を開けて欠伸をしながら、人の波に乗る。
夜遅くまでゲームに熱中していたせいで、少年―米屋陽介は何時もより遅い時間に登校していた。ラストステージには何とか到達できたのだ、これは今夜もひとがんばりしなきゃなあ…と意気込みながら校門をくぐる。昇降口を通り抜けて自身の下駄箱に靴を投げ入れると、ある靴箱が彼の目に入った。そこは他でもない、友人であり所属する隊の隊長である三輪朔のスペースだったのだが…。米屋は思わず眉をひそめる。
(…またか、あいつ)
そこには革靴は入っておらず、白さを失った上履きが鎮座していた。
これは恐らく彼しか知らないことだったが、彼女は遅刻間際に登校してくる日がある。それはある一定の頻度で繰り返されており、彼よりも登校する時間は遅い。故に、今日がその日だと判断するには十分過ぎる証拠だった。
しかし、彼が顔をしかめた理由は他にある。
米屋は朔が遅刻しそうになることには何も感じない。せいぜい寝坊かよー、と言って軽く茶化す程度だろう。問題は其処ではないのだ。
過去に同じく彼女が遅れてやって来た日、一限から体育があった。
季節は初夏、日差しの元歩くだけでも汗ばむ陽気。大半の生徒は半袖で、そうで無くとも長袖のジャージを捲って校庭に並んでいた。そんな中、米屋の目に見たからに暑苦しそうな人物が映る。誰だあいつ…とその後ろ姿をじっくり眺めれば、明らかに見覚えがあるではないか。
我らが隊長は長袖長ズボンのジャージを捲る事無く着用し、ミディアムロングの髪を結んでもいない。暑い暑いと訴える生徒達の中、彼女は一人肌を晒さずに佇んでいた。
朔は寒がりではあるが、暑さもそこそこ苦手な筈だ。それを知っている身としては、些か腑に落ちないものがある。だから、彼は授業終わりにその美しい黒髪を追いかけてみたのだ。
声をかけようとして、彼は息を飲む。彼女は授業中に一度も見せなかった腕を肘まで晒していた。蛇口から流れる水を手で掬い、口をつけている。
「おい、」
何を口にしようとしたのか、米屋はその瞬間すっかり忘れてしまった。視線の先には、白い肌に浮かび上がる赤い痕がある。自分で噛んだにしてはそれは大きく、また難解な位置に存在していた。
「陽介。どうしたの」
彼が全てを理解する前に、朔が口を開く。手から水気を払い、自然な動作で袖を直す彼女には焦りなど感じられなかった。あまりにも普通に声をかけてくるものだから、米屋はどう返せば良いのか分からなくなる。結局その場では、彼はその噛み痕について言及はしなかった。
あの時こそ何も言いはしなかったが、彼は今となってはそれを後悔している。
朔が誰かと交際している訳ではない事は既に確認済みではあるが、そうなると尚更気にかかってしまう。彼女が遅れてやってくる度に様子を窺えば、どんなに暑くても必ず長袖なのだ。その服の下を想像するのは容易いことだった。
(ああクソ…早く来いよ、朔)
今日こそは。
今日こそは、物言わせてもらおう。相手は無防備に晒された携帯から把握している。「今日」とだけ書かれたあのメールが送られてきていた次の日に、彼女は遅れてくるのだ。間違いなく黒である。
いや、相手が問題なのではない…米屋は苛立たしげに指で机を叩いた。
(…なんで、何も)
―結局朔が来たのはチャイムの鳴る数分前。
彼が望む会話は、出来なかった。
騒がしさの増す昼飯時、朔は米屋に連れられて屋上に来ていた。
いつも通りにこやかな彼だが、どこか話しかけ難い雰囲気を放っている。喧騒とは程遠い屋上にたどり着いてから、しばらく二人の間に会話は無かった。
黙々と食事をする中、初めに口を開いたのは米屋である。何となく言いたいことが分かっていた朔は、大人しくその言葉に耳を傾けた。
「朔、お前さあ、欲求不満なの」
呟きにも似た問いは、存外鋭い響きを持って彼の口から零れ落ちる。朔は咀嚼していた物を飲み込み、目で続きを促そうとした。が、答えなければ次には進まないと彼の表情が語っている。おかずを一つ口に含み、ゆっくりと噛んで飲み込んでから、彼女は言った。
「そういう訳じゃない」
「…じゃあどういう訳なんだよ」
ス、と目を細めた米屋を見て、朔は続ける。
「…痛みが欲しいだけだよ」
「痛み?」
懐古的な何かを眼差しに乗せながら、彼女は副菜のきんぴらゴボウを口に含んだ。小さな口の中でそれをよく噛み締め、お茶で流し込む。それを数度繰り返してきんぴらゴボウのあった箇所を空にしてから、彼女は弁当箱に蓋をした。その中身は三分の二ほど残されていたが、米屋は視線をやるだけに留める。いつもなら口うるさく言うのだが、この時だけは何も言わなかった。
「姉さんが死ぬ時に感じた痛みには到底辿り着かないことくらい分かってる。でも、私は痛みが欲しい」
「何で」
「…姉さんが生きていたら感じるはずだった痛みを、感じたい」
表情は変わらないのに、声だけが切実な響きを持っている。米屋はそれ以上強く言えなかった。
―彼は近しい人を亡くしていない。
彼女の姉への依存は異常だが、自分には、何も言うことができない。本当に辛いことを経験していない自分には、何もできない。両親も、宇佐美だって健在なのだ。知った風な口をきける訳がなかった。
ただ、米屋には悔しい事がある。
それは、彼女が自分に何も言ってくれなかった事だった。一番彼女に近しいのは自分。彼女が名前で呼ぶのは自分だけ。彼女の名前を呼ぶのも自分だけ。それなのに、相談の一つもせず彼女は他人に体を許したというのだ。ただ痛みが欲しい…それだけの理由で、だ。
(触らせたんだよな、あの髪も)
―風を受けて揺らめく黒髪。
(あの首も)
―露わになった白い首筋。
(俺が触ったこと無いとこも)
―制服を押し上げる、二つの膨らみ。
考えれば考える程、思考は黒く暗く深みにはまっていった。
腕時計を見て急かしてくる朔に笑いかけて、手にしていた惣菜パンにかじりつく。ガツガツと一気に口に詰め込んで牛乳で流し込んで、そうやって彼はひたすら食事に没頭した。驚き呆れた視線を受け流しながら、最後の一口を消化する。パックの牛乳を飲み干して立ち上がれば、朔もそれに伴って腰を上げた。
その際に揺れる黒を目にして、彼は眩しそうに目を細める。華奢な後ろ姿を見つめながら、米屋は口を開いた。
「…俺じゃ駄目なのかよ」
小さな呟きは、掠れている。
それは相手に届く事無く、予鈴のチャイムに掻き消されて霧散した。
赤い糸は誰にも繋がらない
* * * * * * * * * *
気を向けさせたい彼と、痛みが欲しい彼女と、踏み込めない彼の繋がらない話。
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