十 理想も夢も期待も愛もこの手に残るものはない
夕陽も沈みぽつぽつと星が現れ始めた。
かすみがかった月が夜の街をぼんやりと照らす。
錆びた古い門が風に揺られてきぃきぃと鳴り、臆病な通行人に小さな悲鳴をあげさせる。
まさしく彼の家のそれだった。
民家の窓からは明るいランプの光が零れているのに、彼の家はどんよりとした真っ赤な灯りがともっているだけ。
部屋では燭台に蝋燭が3本、ゆらゆらと火を点らせているだけだった。
ベッドの上の彼はうっすらと目を開けて天井を見ている。
「旦那は本当にしぶといですねぇ。」
青年の皮肉には、いつもの含み笑いもなければ余裕もなさそうだった。
「そうだなあ。」
彼のいつもと変わらない間延びした声。
「最後まで手間をかけさせる。」
少し開いていたカーテンを閉め、窓際に置いてあった剣をとった。
蝋燭の火を映し出して、赤い光を灯した剣は、ただ無表情に青年の手の中に収まっている。
給仕の一人が泣き出した。
「おやめ下さい、どうか、どうかおやめください。もうじきお亡くなりになるのに、どうして、どうして。」
言葉を続けようにも、これ以上出てくることもなく、しとしとと涙をこぼした。
しかしそんなことで青年の意志がおれるはずもなく、ただ冷たい瞳を彼に向けるだけだった。
「遺書は、引き出しの中に。あと、手紙も。」
「はい。」
ゆっくりと剣を振り上げたとき、ドアが開いた。
「死に水、お持ちいたしました。」
ああ、忘れていた。と呟いて手を下ろした。その前を給仕がつかつかと歩いていく。
「旦那様、お疲れ様でした。」
「ありがとう。これから、お幸せに。」
「ええ、きっと。またどこかで、お会いしましょう。」
上体を起こさせて、口に水を含ませた。
喉を通るのを確認して、青年は言う。
「さあ、これ以上は長引かせないでいきやしょうか。」
「そうだ。」
彼がふと思い出したように口を開いた。
「まだ、何か。」
「ありがとう。」
その笑顔は死に際の者と思えぬほどで、ただただ優しかった。
青年にはそれがなんとなく心に刺さる気がした。
「 。」
無情なまでに振り下ろされる腕。
白いシーツが赤く染まる。
「この心、主と共に。」
冷たい朝陽に照らされた肉塊の唇に
そっと砂糖水をつけてやった。
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