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Novel
【拍手】05*12【犬】

休暇で日本に帰国していた梓がアメリカに戻った翌日、誉は家の庭に一匹の黒い小型犬が入り込んでいるのを見付けた。首輪を着けていない為野良犬かと思われたが毛並みは良く、ピンと立った耳と相俟ってどこか理知的な雰囲気がある。


「おいで〜」


黒毛だがどこか青みがかった珍しい色をしており、似た髪色をした梓を思い描く。急ぎの用もなくのんびりと過ごしていた誉は、何とは無しに、こちらの様子を伺っていた犬を手招きしてみた。


「わん!」


元気な一声。犬は颯爽と誉の下までやってくると、腰を下ろした誉を見上げ尻尾をパタパタと振った。


「わあ、人懐っこいのかな?ふふ、君、野良犬かい?」


サンダルを引っ掛けて庭に降り、犬の前にしゃがみながら誉は微笑む。柔らかな毛を撫でながら話し掛けてみると、犬はタイミング良くまた「わん!」と吠えた。







その犬は、毎日金久保家に"遊びに"来るようになった(人間を警戒したり噛み付いたりする様子もないが、誉以外の家族には、誉程には懐かなかった)。どこかの飼い犬が脱走してきているのかと思い、機会を見付けて近隣に声を掛けてみたりもしたのだが、どうにも脱走犬というわけではないらしい。いつしか誉は遊びに来る犬を友人の様に受け入れ、一週間も経つ頃には犬と意志疎通を図れるようになっていた。…犬に"意志疎通"という表現を用いるのも奇妙な事かもしれないが、この犬の場合はその表現が適当であるように誉は感じていた。
不思議な事に、この犬は人間の言葉を理解出来るようなのである。
普通の犬でも飼い主の簡単な命令に従ったりもするが、"彼"(引っくり返った時に雄だと分かった)の場合…誉の言葉に確実に、的確に、"反応"しているのだ。


「君は本当に頭がいいんだね。」


無論、彼が言葉を発する事はない。しかし彼の目の動きや微妙な仕草の違いから、誉は何となくではあるが、彼の反応を読み取る事が出来ていた。


「毛の色もそうだけど、頭がいいところも木ノ瀬君そっくりだね!」


近所の公園を散歩しながら、誉はくすくすと笑う。しかし梓の名前を出すと寂しさを感じてしまうのは仕方のない事で、誉は澄み渡る青空を見上げて小さく溜め息をついた。


「くぅん」


「ん?」


彼が自分の足に身体を寄せぐりぐりと頭を押し付けてくるので、誉は「どうかした?」と声を掛けながらしゃがむと、彼は誉の靴の上にぽふりと前足を乗せた。少し耳を垂れさせ、首を傾ける仕草から、彼が自分を気遣っているのではないかと誉は推測する。


「ふふ、もしかして…僕が寂しがってるって…バレちゃったのかな?」


「わんわん!」


「うん…まだ一週間しか経ってないのに、なんだか無性に寂しくって…。あ、でも、来月にはまた帰ってこれるみたいなんだ!」


誉は彼に色々な話をした。家族の事や高校時代の事、茶道や弓道、星座、そして恋人の梓の事…。人間と違い、犬には素直に、憚る事なく想いを吐き出せるような気がして、誉はこうして彼に気持ちを吐露する事があった。


「くぅー…」


誉が嬉しそうに話す時には、彼も嬉しそうに。誉が悲しそうに話す時には、彼も悲しげに、そして誉を励まそうとする反応を見せていた。…が、今回は何故か、彼は悲しげな反応を見せる。
誉は不思議に思いながらも、「木ノ瀬君が帰って来たら、君と一緒に散歩がしたいなぁ」と話し掛けた。




「わん!わんわん!」


彼と出会って二週間が経ったある日の昼下がり。誉は家のどこかから突然聞こえてきた彼の鳴き声に、本を読んでいた手をビクッと跳ねさせた。彼は、普段遊びに来る時も「来ました」とでも言うように鳴き声を上げるのだがそれはいつも庭の方から聞こえてくるので、いつもと明らかに異なる方向からの声に誉は驚いた。


「わんッ!」


手元に置いていた栞を挟む余裕もなく、本を引っくり返して机に置く。誉が彼の鳴き声が聞こえる方向に小走りで進んでいくと、どうやらテレビのある部屋にいるようだった。どこか切羽詰まった様な声にじわりと汗が滲み、速くなる心臓の拍動が徐々に呼吸を細くさせる。目星を付けた部屋のドアを勢い良く開けると、案の定彼はそこにいて、…何やらテレビに向かって吠えているようであった。


「ど、どこから家に入ったんだいっ?」


「わん!!わん!!」


「…ん?テレビが…どうかしたの?」

「ウウゥ…!」


テレビと誉を交互に見つめ、落ち着きなく歩き回る。賢い彼の事であるから、テレビの前面に電源のボタンがある一昔前の型であったら自分で電源を入れたかもしれない。しかし現代のものはテレビの側面に小さなボタンがある程度で、加えてボタンの位置も高い。犬の肉球で押す事は困難であり、何よりテレビを倒しかねない事を彼は分かっているのだろう。


「つければ…いいのかな?」


「わん!」


リモコンを探し、ボタンを押す。理由は良くわからないが、誉は促されるままにテレビの電源を入れた。画面に映し出されたのはニュース番組で、これでいいのかと彼の顔を見るとテレビ画面をジッと見つめており、チャンネルは変えずとも良いようである。


『紅葉が見頃を迎えており、特に土日は観光客で賑わっています。旅行会社も、各地の紅葉の名所を巡る旅行プランを例年より割安で設定するなど、集客に工夫をしており…』


テレビでは紅葉を取り上げたニュースが流れており、目を奪われるような紅く美しい風景が映っている。誉が、紅葉かぁ…いいなあ、とぼんやりと考えているとパッと画面が切り替わり、深刻そうな顔をしたアナウンサーが現れた為、誉は目を大きく開いた。


「わ、ビックリした…。」


『臨時ニュースです。』


「なんだろう…?」


誉が紅葉に向いていた意識をテレビに戻し、画面を見ていると…アナウンサーの言葉より少し遅れて、画面下にニュースの見出しが表示された。


「…え……っ?」


だが、それは、到底信じられるようなものではなく…………
誉は、リモコンを落とした。






床に落ちた衝撃でリモコンの蓋が外れ、電池が飛び出す。大きな音が部屋に破裂するが彼は微動だにせず、ジッ…と、静かにテレビを見上げていた。


『先程入りました情報によりますと…』


アナウンサーの声が遠く聞こえる。耳に入ってこない。目だけで情報がいっぱいいっぱいだ。『宇宙飛行士の木ノ瀬梓さん 死亡』という文字を見て、鼓膜ごとに身体が凍り付いた。
画面が切り替わり、ニュースの詳細が映像と短い文章で表示される。どうやら"二週間前"に梓はアメリカでスピード違反の自動車に跳ねられて死亡していたらしい。ところが"木ノ瀬梓"を殺してしまった事に気付いた運転手が逮捕を恐れ、吹き飛んだ鞄に入っていて奇跡的に生きていた梓の携帯電話から関係者に「体調不良なのでしばらく休養する」といった旨のメールを送信し電話を破棄、その後遺体を隠蔽…。運良く目撃者もいなかった運転手は、それでしばらくの間誤魔化していたらしい。だが連絡がつかない事を不審に思った関係者が警察に通報し…事件の発覚となったようである。
しかし誉には、そのような情報は半分も耳に入っていなかった。ただひたすらに『木ノ瀬君が死んだ』という言葉が渦巻いていた。


「そん………な…」


茫然自失とはまさにこの事だろうか。魂が抜けたように固まった誉は、泣く事すらせずに、ただただ硬直していた。
気付けばテレビはご当地グルメの楽しげな特集を流しており、しかしリモコンは電池が抜けた状態で床に転がっている為電源が落とせない。テレビのボタンを直接押して電源を落とす動作も、電池を拾ってリモコンに戻す動作も"出来ない"。固まる事しか出来なかった。










「……ねぇ…。」


どのくらい時が経っただろうか。賢い彼がリモコンに電池を戻し、テレビの電源を切った事でようやく我に返った誉は、目線をゆっくりと彼に向けながら消え入りそうな声を出した。部屋の窓辺に移動した彼は実に静かに座っており、その表情からは何も"読み取れない"。


「もしかして……君は…、…もしかして……」


彼の事だ。誉が何を言いたいのか、誰の名前を言いかけているのか…理解している事だろう。
しかし彼は動かない。表情も変えない。ただ、ジッと誉を見上げ…時折尻尾の位置を右から左へと変える程度だ。
"読み取れない"。当たり前だ。"彼は犬なのだから"。
だが誉は悟る。彼の行動を振り返り、全てを悟った。
彼は何も答えない。しかし彼が此処に居るということは、つまり、…そういう事なのだ。
























次の日、彼は来なかった。













end


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あきゅろす。
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