[携帯モード] [URL送信]
Lv.2-26




 一面に薄い水の張られている場所に、俺は立っていた。
 剥き出しの足首から下を濡らす水は心地良い温度で俺の動きを止める。そう、足を動かすのが億劫だった。動くことが適うのか適わないのかもわからないまま、ただその足の重さに俺はその広大な水溜りに独り佇んでいた。
 視界に広がる水の終端は見当たらない。何処までも広がる世界は青く、とても静かだった。
 空と水の境界は遥か遠くにあって、目を凝らしてもその途中に一向に人影を見ることはできない。
 俺は、独りだった。隣に、いつも傍にいてくれる未来も、そっと見守ってくれるミツハさんの姿もない。
 俺だけが、世界に取り残されていた。
 不意に、俺は何故か悲しくなって、重い足を水面から上げる。動かすのも億劫だった足は、しかし水の僅かな抵抗を受けただけでいとも簡単にその呪縛から解き放たれた。
 そしてばしゃと音を立てて前へ進めば、俺を中心に水面が揺れて小さなうねりを作った。俺は構わずばしゃばしゃと水を蹴って尚も進む。
 跳ねた水が腕や頬に当たって肌を流れ落ちていった。苦しい、苦しい、と俺は思う。訳のわからない感情が胸の中で蟠ってひたすら苦しい。
 張り裂けそうな苦痛が俺の足を前に駆り立てた。
 そして、どれくらい走り続けたのだろう。鼓膜を打つのは緩くなった足が立てるザバザバという、足を引き摺るような水音と荒い呼吸音だけになった。
 瞬きをするたびに瞼の上から汗が垂れた。目に沁みて痛い。苦しい、倒れそうだった。
 そして俺は、とうとう足を止めた。
 水面は、まだ先が見えない。俺は膝に手を当て、そして震える太腿を擦った。
 ただの地面を走るのとは違って、水を蹴って走るのは酷く疲れることを俺は知った。すぐに息が上がってしまう。
 酸素を送ろうとする肺が痛い、喉が痛い、頭の奥が軋むような感覚すらある。心臓は言うまでもない。ひゅうひゅうと喉から細い呼吸音が漏れて、蟀谷から汗がぽたぽたと水面へと落ちた。
 汗で波紋を作った水面に視線を落とせば、今にも泣き出しそうな疲れた自分の姿が映っていて、それすら切なく感じてしまう。何故だろう、酷く胸が痛い。
 俺はとりあえず、汗に濡れた黒髪が歪んだ表情を作るその頬に張り付いているのに気付いてそれを乱雑に取り払った。そして緩く頭を振る。
 それにしても、どれくらい走ったのだろう。
 最初にいた場所なんて覚えていなかった。なによりそれを判別するための道標もない、ただの水溜りの中ではそんなことを考えることすら無駄かもしれないが。
 けれども、かなり走った気がする。それなのに、何処までいっても、いくら首を回しても、やはり俺以外に人の姿はない。薄雲一つない空は、何処までも高く見上げれば吸い込まれてしまいそうだ。
 そして視界にはただ青い世界が広がるだけで、俺は訳もなく叫びだしたくなった。
 俺は再度水面へと顔を俯かせて、肩を震わせる。感情が昂ってとまらない。どうしてかわからない。ただ、無性に叫びたい。
 ―――何故俺は独りなのだろう、どうしてここには誰もいないのだろう、どうして誰も迎えに来てくれないのだろう?
 泣きたいくらい切なくなって、俺は不意に違う、これは俺じゃない、と思う。
 けれども、脳内は誰もいない、誰も助けてくれない、誰も来てくれないという切ない慟哭で満ち満ちていて、俺はボロボロと耐え切れず涙腺を崩壊させた。涙が頬を伝って水面を揺らす。眦が熱い。ヒリヒリと痛みさえ孕んで涙を分泌した。
 そうして俺は、これは夢なのだろうと泣きながら判断する。夢だ、夢以外にはありえない。
 たとえ、とてもリアルな水の感触があっても、肺の痛みも頭の痛みがあっても、そしてこの嘔吐きさえもよおすような悲しさ苦しみ辛さがあったとしても、夢に違いない。
 だって俺には未来もミツハさんもいるし、迎えなんて必要ない。俺が二人を見つけに行く。だからこんな思いを抱えているのは俺ではない。
 それなのに、やはり胸が痛くて仕方なかった。独りが怖くて泣いている。
 ここは何処で誰がどうしてこうなったのか、もう訳がわからないのに、ただひたすら悲しくて泣いている、誰かが。
 そして声を上げたいのに、声も出ない。叫びだしたいのに、叫ぶ声がない。
 喉からはひゅうひゅうと細い吐息が漏れるだけだ。鼻水が鼻腔に溜まる。ズルズルと啜っていれば、不意に眼下の水面が揺れた。俺が起こしたのではない、大きなうねりだった。
 俺はハッとして顔を上げる。
 視界は、相変わらず青かった。その眩しいほどに青い世界に、異質な金色が飛び込んでくる。
 俺は、目を細めた。


[*down][up#]

26/167ページ

[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!