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Lv.2-28
 けれども、その瞳を見ていると、俺はだんだんと視界が狭まっていくのを感じた。眠りに誘われるように頭の奥がぼうっとなってくる。
 そんななか、不意に足元で水が今までになく大きく跳ね上がった。
 裸足の足裏に、沸騰したわけでもないのに湧きあがる気泡が当たってこそばゆい。水面で空気は爆ぜて飛沫を上げた。
 冷たいのか温いのか、もうそれすら曖昧だ。
 目前の、その人は相変わらず俺の頬を撫でている。もう涙は止まっていた。ただ、瞼を上げておくのが辛い。
 目を瞑れば、きっとこの夢は終わるだろうという漠然とした予感が俺にはあった。
 そしてそもそも本当にこれは夢なのか、とも思っている。もしかしたらこの人の『能力』なのかもしれない。
 けれども、それなら何故この人は俺をその範疇に入れたのか。俺になにをして欲しいのだろう。
 あの胸を締め付けるような悲痛な叫びは、この綺麗で寂しそうな人のものだったのだろうか。
 疑問ばかりが湧いた。
 せめて、あなたは誰なんですかと問いたかった。名前を知らなければ、呼ぶことも適わない。
 俺はそれを知りたくて口を開く。

「……っ」

 けれども、開いた唇からは詰まったような音と空気の塊がすり抜けるだけで、やはりこんなときでも俺の声帯はその役割を果たさなかった。
 俺はそれでも唇を必死に開閉させて、狭まる視界でその人を見上げる。
 どうしようもなく悲しい。思いを伝えられないことが、とても悲しかった。
 止まったはずの涙がまた頬を伝い落ちる。
 それを、目前のその人が指の腹で拭う。冷たい指先は、酷く優しくてますます泣きそうになってしまう。
 名前も知らないこの人を、どうして俺はこんな気持ちで考えているのだろう。
 会ったことなどないはずだ。少なくとも、俺の物心つくころからの記憶にはない顔だった。こんな美人さんなら、きっと覚えていてもおかしくないはずだから、本当に知らないのだろう。
 俺はそれでも、感情の色の変わらぬその顔を目に焼き付けておこうと俺は思った。
 名前は呼べないけれども、せめて、それだけは。 
 そんな決意の間にも、足元で流動する水は次第に波紋を大きくして俺の意識を奪っていく。足から力が抜けて、身体が傾いだ。
 そんな俺を、細腕にもかかわらず抱きとめるその人を、俺はもう線のような視界の中で認める。
 身体が宙に浮くような感覚すらあった。それに意識と肉体の乖離が進んでいるのを俺は理解する。
 そして最後に、俺はその人が口を開くのを見た。
 薄い唇が綺麗な弧を描いて、俺に何かを言っている。
 もう、音も拾えない。無音だ。水の音も、その声も、なにも聞こえない。
 なにをいっているのか知りたいのに、俺はこの何処までも青い世界から切り離されてしまう。この人を、置いていってしまう。
 悲しい悲しい、切ない―――それなのに、悲しくて切ないはずなのに、意識が落ちる寸前、最後にその人を見た俺の胸に残った感情は何故か温かいもので、それはこの人のものなのだろうかと俺は思う。そうであってほしいと思って、俺は目を閉じた。
 瞼の裏に、鮮やかな青が一瞬浮かんで、そして、消えていった。





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あきゅろす。
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