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彩雲の緋
暴露
豪奢な柱が立ち並ぶ広い廊を、苛々と足を踏み鳴らして歩き回る男がいた。

「くそッ、執務室はいつのまに移動したんだ!」

先程からぐるぐると同じところばかりを回っていることに男は気づかない。

その背を見つめながら、躊躇いがちに声をかける者があった。

「えっと……李絳攸殿、だったかな」

背後から聞こえた声に男は勢いよく振り返る。

「誰だ! って、あー……陽子殿」

「道に迷ったのか? どこに行くつもりだったんだ」

「……主上の執務室だ」

迷ったという部分を否定しようとしたが思いとどまって正直に告白する。すると陽子は折り畳まれた紙を振りながら楽しそうに言った。

「それなら私と一緒に行かないか? さっき宮中の地図をもらったから、探検しているところだったんだ」

「……ああ、有り難い」

二人は並んで暫く無言で歩いていたが、地図を見ていた陽子がふと思い出したように顔を上げた。

「そういえば、絳攸殿は女性が苦手なのだっけ」

「なッ、誰に聞いたんだ?」

「邵可殿に。それで、私も一応女なんだけど大丈夫なのかな?」

「……陽子殿は女に見えないから平気だ」

いっそ清々しいほどにきっぱりと言う絳攸に陽子は苦笑した。

「随分とはっきり言うな、絳攸殿は。私はいいが、あまりそういうことを他の女性には言わない方がいいんじゃないか?」

「そうか?」

「そういうものだろう?」

慶では女王に対して風あたりが強いこともあり、陽子にとって「女」として見られないことは別段嫌がるようなことではない。だが世間一般の女性にとってはそうではないはずだ。

そうこうしているうちに、王の執務室はすぐそこに近付いていた。

「ああ、着いたな。それじゃあ、私はここで」

踵を返そうとした陽子を、扉の取っ手に手をかけた絳攸が呼び止める。

「折角ここまで来たんだ。寄っていかないのか?」

言われて陽子は素直に頷いた。

「そうだな。折角だから挨拶ぐらいはしていこう」

絳攸が執務室の扉を開け放つと、珍しく真面目に筆を執っていた劉輝が顔を上げた。

「ただいま戻りました、主上」

「おお、今日は結構早かったのだな。――む? 後ろにいるにはもしかして……」

「どうも、こんにちは。廊下で偶然絳攸殿に会ったので」

絳攸の背から顔を出した陽子が軽く頭を下げる。

執務机の脇に立っていた楸瑛はわざとらしく肩を竦めると溜息を吐いた。

「つい先日来たばかりの客人に道案内させるなんて……君の方向音痴もそこまできたんだね」

「誰が方向音痴だ!」

「いい加減認めなよ。君が方向音痴じゃないのなら、いったい誰をそう呼べばいいんだい?」

陽子はくすくすと笑う。

「私は地図を持っていたから。探検している途中で偶然絳攸殿を見つけなんだ」

それに金波宮ほどではないが、一国の宮城なだけあってここは広い。普段通らない回廊に入ってしまえば迷ってしまうのも無理はないだろう。

しかし陽子の言葉を聞いた劉輝が首を傾げて絳攸の方を振り仰いだ。

「ん? しかし、地図なら絳攸だって――」

「それ以上言ったら今日の休憩は無しですよ主上」

「ごめんなさい」

陽子は思わず吹き出した。雁の主従のやり取りに似ている気もするが、あそこの主は彼のように殊勝ではない。どれだけ罵られようと笑って流すか、もしくは逆に丸め込んでしまうのだから。

「あ、陽子はこれから何か予定でもあるのか? もし良かったらこれから余とお話でもしていかないか」

「私は構わないのだけれど、政務が忙しいんじゃないですか?」

「それは大丈夫だ。な、今日ぐらいいいだろう絳攸?」

自信満々な口調とは裏腹の懇願するような瞳で見つめられた絳攸は憮然としながらも頷く。

「まあ、いいでしょう。その代わり明日は今日の三倍の政務をこなしてもらいますよ」

「三倍!? 二倍じゃなくてか!?」

「当然です。主上が半日も休めばそれだけ全体の流れが滞るのですからね。何か異存でも?」

「……いや、無い。分かった。明日は頑張る」

「結構」

一方的に話はまとまったようなので陽子は笑いながらも勧められた椅子に腰を下ろした。

「私も彩雲国王とはゆっくり話をしてみたいと思っていたんですよ」

そう言う陽子に劉輝はちょっとだけ顔をしかめる。

「その彩雲国王という呼び方はなんというか、居心地が悪いのだが。劉輝、と名前で呼んでくれないか?」

確かに呼びやすい敬称ではない。しかし彩雲国にはあちらのような国氏が存在しないからそう呼ぶほかなかったのだ。
一介の留学生としての陽子が王の名を呼んで良いものなのかは分からなかったが、本人が良いと言うからにはそれで良いのだろう。

「あと、敬語もやめてほしい。陽子はこの国の民ではないのだから余に畏まる必要はないだろう」

「――そうかな。まあ、劉輝殿がそう言うのならそうしよう」

戸の外から声が掛かり、女官が盆に茶をのせて運んできた。陽子の分もあるようなので有難く置けとる。

「陽子は慶と言う国から来たらしいな」

ほうじ茶に似た香りを立てる茶をすすりながら、劉輝はそう切り出した。

「余は慶という名の国を耳にしたことはない。少なくとも彩雲国の周辺には無いはずだが、それはどこにある国なのだ?」

「――うんと遠くにある国だよ」

ただそれだけを口にして、陽子は暫し逡巡した。
綻び≠フことは機密事項ではない、と霄太師も羽羽も言っていた。普通の者は耳にしたこともなかろうが、学に深く通じるものならば知っているやもしれぬ、と。ならばここで明かしても問題はないのだろうが、如何せん説明が厄介に過ぎる。

「そんなに遠いところなのか? それならそなたの父親と霄太師はどうやって知り合ったのだ?」
もっともな問いがぶつけられ、陽子はやはり正直に話すことに決めた。
下手にここで嘘をついたがために後から辻褄合わせに苦労することを考えると馬鹿らしい。説明が面倒ならば全ては話さなければ良いだけだ。

ならば、まず最初に言うべきことは――

「仙洞省などの場所で揺らいだ気が綻んで、こことは異なる世界と繋がることがある、という話を聞いたことがないか?」

話の展開についていけない劉輝と楸瑛が首を傾げる一方で、絳攸だけが違う反応を見せた。

「……それは綻び≠ニ呼ばれるもののことか?」

「知っているのかい、絳攸?」

「ああ。いつか邵可様を手伝って府庫を整理していた時にそんなことが書かれていた書物を目にした。それによると数百年に一度、気の綻び≠ゥら生じた穴がこの世と本来交わることのない異界とを繋ぐとか。場合によっては向こうの世の物が綻び≠潜ってくることもあるらしいぞ」

絳攸が視線を寄越してきたので陽子はそれで合っている、と頷いた。流石は宮中一の才人と称される人物だ。
対して他のふたりはやはりと言うべきか全く耳にしたことがなかったようである。

「ほお、不思議なこともあるのだな。余は初めて知ったぞ」

「私もですよ。……しかしそれを陽子殿が今言い出すってことは、それが陽子殿の出自に関係あるということですよね――」

腕を組んだ楸瑛の台詞を引き継いで続けたのは劉輝だった。


「――まさか、陽子は異国どころか異界からやって来たのだとか?」

「正解」


これには三人とも唖然とした。

「陽子は留学生として来たのではなかったのか!?」

「帰る方法をなんとか見つけるまでは彩雲国の政を学んでいようと思っているから、強ち間違いではないと思う」

「霄太師の友人の娘だというのは?」

「申し訳ないけど嘘だ。霄太師とは牢から出される時に初めて会った」

「すると霄太師はお前が何処から来たのか知っていたんだな……」

「うん。綻び≠フことを私に教えてくれたのもあの人だ」

その後も降り注ぐ質問の嵐に陽子は出来る限り答えていく。
それでも自身が人ではなく神仙であること、慶の王であることだけは伏せておいた。隠すことではないが、わざわざ言うことでもあるまい。何故この国の言葉を話せるのかという指摘にはたまたま言語が同じだったのだろう、と答えておいた。

本当は自分の方が彼らにたくさん聞きたいことがあったのだけど、と陽子は心の内でそっと零した。仕方がない。話をする機会ぐらいこの先もあるだろうし。

その時、扉の向こうから男の声が響いた。

「礼部からの書簡です。至急主上に裁可を願いたいと」

「ああ。絳攸、受け取ってくれるか」

絳攸が扉を開け、使いのものから書簡を受け取る。軽く内容を確認してから執務机の端に置いた。

「国試の予備宿舎の件だな」

それを聞いて陽子は思い出したことを口にする。

「官吏登用のための試験で今年から女人受験制を導入すると聞いたけれど、その準備で忙しいのか?」

「そうなのだ。あとひと月もないし、何しろ反対派が多すぎるのでな」

深々と吐かれた溜息に陽子は同情を禁じ得なかった。
男尊女卑が確立された社会において突然女を政に参加させるなどと言いだしたのでは、男性側からの反発は並のものではないだろう。蓬莱でも、女性の参政権獲得のために一体どれだけの年月を費やしたことか。

「そんな忙しい時に邪魔をしてしまったのだな、私は。そろそろ失礼することにしよう」

劉輝は慌てて首を振る。

「そんなことはない。むしろ余が頼んだのだ」

劉輝は本心からの言葉なのだろうが、陽子としてもこれ以上ここに居るといらぬ事まで話してしまいそうだと感じていたところだったのだ。説明に困りそうな諸々の事柄についてまで話したくはない。――少なくとも、今はまだ。

「忙しい時期が過ぎたら、またゆっくり話をしよう。その時は、答えるばかりじゃなくてこっちにも質問をさせてほしいな」

「そうか、そうだな」

「では、また」

陽子が出て行き、室にはまた男三人だけになった。

「清々しい人物だねえ、陽子殿は。絳攸が陽子殿相手だと普通に話せるのも分かる気がするよ」

しみじみと言った楸瑛に、絳攸はまあな、と頷く。

「まあ、陽子殿は外見も女には見えないからな」

「そんなことはないと思うけどね。というか君、まさかその言葉を本人にも言ったりしていないだろうね?」

「……」

陽子の声が頭の中で反響する。
――あまりそういうことを他の女性には言わない方がいいんじゃないか?

楸瑛は心底呆れたふうに肩をすくめた。

「……言ったのか。本当に君は、どうしていつもそうなんだろうねえ……」

「五月蝿い! ほら主上、さっきの書簡にとっとと目を通してください。何のために陽子殿が早めに退出したと思っているんですか!」

「うう〜」

理不尽な八つ当たりを受ける劉輝を楸瑛は我関せずと傍観している。

「でも、官の中にも陽子殿が女だと分かっている者は少ないのだろうね」

「朝議でも陽子の性別については敢えて言及しなかったからな。この時期に余計な油を注ぐ必要はないだろう」

「まあ、それもそうですよね」

バシッと音がして劉輝の頭に軽い衝撃が走った。絳攸の手には丸めた書簡。

「そこッ! 手が止まっている!」

「酷いのだー……」



――女人受験制導入国試まで、あと二十三日。


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あきゅろす。
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