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彩雲の緋
血縁
午後、府庫へ向かう中途で、陽子は今までの視線とはひと味違う身に突き刺さるような視線をひしひしと感じていた。

──また、これか……。

この視線を感じるのはどういう訳か府庫への行き帰りに限られていた。どうやら一人のようだが、ここまで露骨に憎しみを向けられるようなことをこの国でした覚えは陽子にはない。

時折生卵が飛んできたり、行く手にバナナのような果物の皮が落ちていたりすることがある。誰が掃除するのやら、と思いながらもそれらを難なく避け、しばらく過ぎたところでふと後ろを振り返ってみるとそこには何もない。……妙なこともあるものだ。

露骨に被害があるわけでもないので、犯人に対しては放置を決め込むことにしている。触らぬ神に祟りなし、と言うし。……一応自身が神である陽子がこの諺を用いるのはおかしいかもしれないが、この状況にはぴったりな気がしていた。

「小学生のいじめか……」

それにしても、何という低レベルな。深々と溜息をつくと、今度は側頭に向かって何かが飛来してきた。

「──ッ」

身を捩ってそれを避ける。棒のようなものが壁に垂直にぶつかって鋭い音を立てた。

そのまま床に落ちたものを屈んで拾い上げると、それは閉じた扇だった。

――何で扇が……?

いかにも高級そうなそれを横に滑らせるようにして開いてみると、張られていたのは鮮やかな紅色の布だった。

辺りを見回すがこれを投げてきたらしき人影はない。しかし恐らく、犯人はあの卵や皮や、視線の人物と同一人物なのだろう。

扇を持ったまま府庫の扉を開けると、邵可は書棚の前に立って書物の整理をしていた。

「いらっしゃい、陽子。……おや、それは」

邵可の視線は陽子が右手に握る例の扇に向いていた。

「何故かはわからないけれど、さっき廊を歩いていたら飛んできたんだ」

笑ってひらひらと振って見せると、何故か邵可は顔を強ばらせたようだった。

「ちょっと、見せてもらってもいいですか?」

「え、ああ」

この温和な人物から聞いたことのない硬い声に陽子は扇を差し出した。

受け取ったものをじっくりと見つめていた邵可は何かを確信したのか重く溜息を吐く。

「……邵可殿はそれの持ち主を知っているのですか?」

問えば、またもや嘆息しながらも肯定する。

「ええ、私の弟です」

「弟!?」

予想だにしていなかった答えに陽子は声が裏返るのを抑えられなかった。

「何故邵可殿の弟が私にこんな……」

こんな子供のような嫌がらせを、とは流石に言えなかった。
しかし邵可は陽子の意を汲み取ったのかばつが悪そうに笑う。

「本当にすみません。黎深は少しひねくれたところがあって……」

私からよく叱っておきます、と言って邵可はまた困ったような顔した。 

見た目から推察できる邵可の歳は四十前後。その弟ならばどんなに歳が離れていても立派な成人だろうに、兄にこんな顔をさせるとは一体どんな弟なのか。

「邵可殿。その扇、私から本人に返してきても良いですか?」

そう言うと邵可は何故か一瞬躊躇したが、分かりました、お願いしますと微笑んで陽子に扇を手渡した。



午後の恒例となってきた邵可との勉強を終え、府庫を出ると例のごとく突き刺さってくるあの視線。いつもは気づかないふりをして通り過ぎるのだが今日だけは違った、

人通りがなくなったところの廊で立ち止まり、声を上げる。

「紅黎深殿だろう? さっきの扇を返したいのだが。ついでに少し話をしたいな」

帯に挟んでいた扇をとって頭上に掲げると、パシッと小気味良い音がして手の中の質感が消えた。

「小娘が私に何の用だ。馴れ馴れしく兄上に纏わりつきおって」

背後から刺々しい男の声がして陽子は振り向いた。

「では、あなたが紅黎深か」

「貴様などに名乗る名はない」

何とも清々しいほどの傲岸不遜っぷりだが、どうやらこの男が邵可の弟の黎深で間違いないようだ。

思いのほか整っている顔立ちをじっくりと眺めてしまったのが気に食わなかったのか、黎深は陽子から奪った扇を優雅に広げて顔の下半分を覆った。

「不躾な小娘だな。言いたいことがあるならはっきり言え」

「いや、すまない。顔が邵可殿に似ているな……と思って」

この時まで陽子は、兄弟は似るものなのだという事実を完全に失念していた。――あちらには、血の繋がりなんてものは存在していなかったのだから。
ほんの二十年であちらの常識が身にしみてしまっていたことに陽子はそっと苦笑した。

同時に、今まで意識的に押し殺してきた生まれ故郷に対する郷愁が温かな波のようにせり上がってくる。

「そう、兄弟は似るものなのだったな。――すっかり忘れていた」

もう一度黎深の顔を見上げると、彼は恍惚とした表情になって目を細めていた。

「私が、兄上に似ている……」

呟いた黎深の眦は下がりきっている。扇で隠れていてもわかる、先程までとは打って変わって緩みきった表情に陽子は何やら心配になり控えめに声をかけた。

「だ、大丈夫か……?」

それには答えず、黎深はパチンと音を立てて扇を閉じた。

「中嶋陽子、だったな」

あの敵意に満ちた視線の持ち主とは信じられないような嬉しそうな声だった。

陽子は頷いた。

「そう言えば名乗っていなかったな。もう知っているようだけれど」

「当然だ」

そう言った口元は緩やかに弧を描いている。

黎深は閉じた扇で真っ直ぐに陽子を指した。

「なかなかに見所のある小娘だ。先ほどの言葉に免じて少しは譲歩してやろう」

言うだけ言うと黎深はさっさと身を翻して陽子の元から立ち去っていった。――訳がわからない。

陽子は黙ってその背中を見送った。

――邵可殿に似ていると言われたのが嬉しかったのか……?

彼の態度が豹変した理由がそれ以外に浮かばなかった。だとすると。

――これが世に言う、ブラザー・コンプレックスというやつか……。

そう思えばあの視線も嫌がらせも、微笑ましいものがある。

「血の繋がった兄弟、か……」

零れるように呟かれたその言葉を聞いたのは、彼女の影の中に潜む一頭の使令だけだった。


* * *


次の日から、陽子に対する謎の嫌がらせはぴたりとやんだ。その理由は、黎深が陽子に宣言した言葉だけではなく――

「黎深、陽子に扇を投げつけたんだって?」
「扇だけではありません、生卵もです。それもこれも、あの得体の知れない小娘が兄上のそばに近付いたりするから……」
「黎深」
「……これからはもう止めます」
「分かればいいんだよ」


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