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彩雲の緋
滞在の意

――陽子、起きて。朝議に遅れるわよ。……まったく、また夜更かししていたの?

微睡みの向こうで鈴の呆れたような声が、いつものように彼女の名を呼んだのが聞こえた。
ゆるゆると意識が浮上し、水面に近付いた所で一気に覚醒する。

まず視界に入ったのは、友人である女官の姿ではなく赤い毛並みの獣だった。

「……おはよう、班渠」

手をついて身を起こすと、枕元に書物が散乱していた。燭台の火は燃え尽きて炭となった芯だけが残っている。そういえば昨夜は牀榻で書を読みながら眠ってしまったのだった。彩雲国の文字はあちらのものと大差ないのだが、細かなところで文法が違うので読んでいるとかなり疲労が溜まってしまう。

「主上、あまり根を詰めなさいますな」

班渠が憮然とした様子で言った。こういうときの声は主に似ているな、と思いながら陽子は小さく苦笑する。

「そうは言っていられないだろう。私は即位してまだ二十年なんだ。やっと国が落ち着いてきたという時に王が玉座を空けては台無しだ」

「しかし、霄太師が申していたでしょう。こちらでどれほどの時を過ごしても、あちらでの時には影響しないと」

陽子は牀榻に散らばった書物を拾い集める。そのうちの幾冊かは床にまで落ちていた。

「主上は少し、延王を見習ってもよろしいのではないか」

言われて大恩ある彼の王の顔を思い起こす。賭博に妓楼に他国の視察にと、やけに息抜きの上手な隣国の王。

あの余裕ある構えは五百年国を保ってきた名君だからこそのものだと思っていたが、彼の半身の話からするとそうでもないらしい。するとあれは生まれついての才なのか。

「私は延王ほどの器を持っていないからな……」

「主上」

窘める硬い声に、陽子は分かったよ、と小さく微笑う。

「少し肩の力を抜くことにしよう。──そう、焦ったってどうにかなる問題でもないようだし。折角だから彩雲国の朝の仕組みや民の暮らしもゆっくり見学することにしようか」


* * *


仙洞省を訪れると、ここ数日で顔見知りになった官が陽子を出迎えた。

仙洞省の官吏の一部は陽子の事情を知っているらしい。
最初に訪れた時には牢に放り込んだりして悪かった、と謝罪までされた。それで『綻び≠生きて潜ってきた人間はいない』という霄太師の言葉を思い出した。おそらく陽子が生きていて、しかも得物を持っていたために不審人物だと認識されたのだろう。

今では血と髪を少量提供することと引き替えに綻び≠ノ関する書物を手当たり次第借り受ける許可を得た立場だ。そんなものをどうするのかと問うと、調べてみたいだけだという答えが返ってきた。怪しいことには使わないと誓う、とまで言うので、それならと血を小瓶に一杯と、それと同じ色の髪の毛を数本提供したのだった。



仙洞省のやや奥まったところにある書庫で棚に並ぶ書物を物色していると、ふわふわと小柄な人影が近づいて来た。仙洞令尹の羽羽だ。

「おはようございますじゃ、陽子殿」

「羽羽殿。おはようございます」

「何か有益な情報は見つかりましたかのう?」

陽子は首を横に振った。

「でも、まだ全部は読んでいないので」

羽羽は申し訳なさそうに陽子の顔を見上げた。小動物のような丸い瞳が憂いの色に染まる。

「こちらでも調べてはおるのですが、こちらから穴を開けるという試みは如何せん例のないことで情報が少ないのですじゃ……。気の揺らぎから綻びをつくろうにも、下手な方法は取れませんからのう……」

項垂れてしまった羽羽に陽子は微笑した。

「お手を煩わせてしまっているようで申し訳ない。どうやら私は焦りすぎてしまうきらいがあるようなので。これからは少し改めようかと思っています」

その言葉に羽羽は、はっと顔を上げた。

「では、暫くはこちらに腰を落ち着けるおつもりで?」

「ええ、それも良いかと。こちらの時間とあちらの時間には全く関連がないのでしょう?」

「はい、その通りですじゃ」

「だからもう、ここは開き直って学を深めることに専念しようかと思うんです。勿論、帰る方法も探し続けるけど」

それに運がよければあちらから迎えが来るという可能性もある。もしかしたら、こちらからよりもあちらからの方が穴をつくりやすいかもしれない。
兎にも角にも、焦燥に駆られてがむしゃらに動いても仕様がないのだ。




「何か私たちに手助けできることがあれば遠慮なく言ってくだされ」

その言葉に礼を言って、陽子は新しく借りた書物を抱えて仙洞省を後にした。外朝の回廊を歩いて自室へと向かう。

官服の男たちの中で一人あちら仕様の袍を身に着けている陽子は否応なく目立った。
書簡を抱えて行き交う官吏たちが擦れ違いざまにちらちらと視線を陽子に投げてくる。好奇の目や、不快の含まれる視線、もしくは特に関心の無さげな一瞥。

負の感情を孕ませた視線を向けられるのには慣れているが、こんな珍獣のように観察されるのは居心地が悪い。

――今度から侍童服で出歩こうかな。

侍童の振りをして、上手くいけば六部に潜り込んで官吏たちの仕事ぶりを見られるかもしれない。

――ああ、でも既に容姿を覚えられてしまっているだろうから無理かもしれない……。

自室に戻り、卓に荷物を置くと時刻はちょうど昼時だった。昼食を摂ってから今日も府庫で勉強しようと思いながら庖厨へと向かう。霄太師の計らいで陽子の食事は外朝にある官吏用の食堂で摂れるようになっていた。


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