彩雲の緋
牢
頬に冷たい石の感触がして陽子はゆるりと目を覚ました。
身じろぎをするとひどく体が重たく感じた。身を起こそうとして手首に木製の枷が嵌められていることに気づく。
小さく溜息を吐いて両腕を上手くついて上身を起こすとむき出しの岩壁に背中をもたせた。
目の前に、格子と錠のかかった扉があった。辺りは湿気を帯びて薄暗く、明かりは格子の向こうにある小さな燭台ぐらいしかない。
灰色の闇に目を慣らしつつ陽子は狭苦しい石の房の中を見渡した。
――これは、どんな状況なんだ。
陽子がいる場所はどう見ても牢としか思えない。
陽子を景王と知って捕らえたのならば即ち謀反なのだろう。しかし生憎と叛徒に心当たりはない。
そもそもそんな不穏な動きに心当たりがあればむざむざと一人で城下を歩き回ったりなどしない。
そこで陽子は意識を失う直前に何があったのかを思い出した。
「起きたか、小娘」
低い男の声に陽子の思考は断ち切られた。
視線を声の方に向けると、武器を持った男たちが数人こちらに近づいてきた。
どうやらずっと見張られていたらしい。
さっき声を発したこの場の責任者らしき強面の男と目を合わせ、陽子は低い声で疑問を呈す。
「ここはどこだ?」
男はふんと鼻を鳴らして答えた。
「見ての通り、お前が忍び込んだ朝廷の牢だよ。何が目的か知らんが、入り込んだ先で行き倒れては世話ねえな。しかも服は水浸しときた」
言われて自分の纏う布に視線を落とすと見覚えのない男物の衣が目に入った。蝕で荒れ狂った湖の水をかぶったことを思い出す。
次いで、男の前半の言葉に思いを巡らせた。
彼は、ここは朝廷だと言った──それも、陽子の知り合いの王や麒麟がいない国の。
それはつまり、あの蝕で陽子は他国の宮城まで飛ばされてしまったということなのか。
そこまで考えて、陽子は一つの事実を思い出した。
――雲海の上では、蝕は起こらない。
だからここが本当に「朝廷」なのだとすれば、それは十二国では有り得ないのだと。
体の芯から血が引いていった気がした。
背中から冷たい汗が滲み肌を伝って落ちていく。
――卵果以外のものがこちらから流されることなんてないはずなのに。
落ち着け、と陽子は自分に言い聞かせた。
自分に着せられた簡素な衣と、見張りの男たちが纏う官服のような衣を見比べる。
――少なくとも、ここは蓬莱ではない。
だが崑崙でもないはずだ。陽子は中国に行ったことがあるわけではないが現代の中国人がこのような昔ながらの衣装を纏っているはずがないことは分かる。
――ここは、どこだ……。
***
こつ、こつ、と誰かが石段を降りてくる音がする。
「ああ、来たな。取り調べのための呼び出しだろう」
強面の男が懐から鍵の束を取り出して足音の主が姿を現すのを待つ。
現れたのは、飄々とした雰囲気を纏った、白い髭の老爺だった。
その老人の姿を目にした男の顔色がさっと変わり、慌てて膝をつき頭を下げる。
「こ、これはショウタイシ。いかがなされました、このようなところに」
「なあに、ワシの知り合いの娘がうっかり投獄されてしまったと聞いてのう。こうやって迎えに来た次第じゃ。今朝宮城に連れて来たのじゃが、いつの間にかはぐれてしもうてな。いやしかし、まさか行き倒れて牢に放り込まれておったとは露とも思わんかったぞ」
ショウタイシと呼ばれた老人がカラカラと笑う。
見張りの男は胡乱な目で陽子と老爺を見比べた。
「ショウタイシのお知り合いでしたか。しかし……」
「心配せんでも主上には既に報告してある。今回のことはただの事故じゃ。早う出してやってくれんかの」
感情を感じさせない双眸が石壁に凭れた陽子に向けられる。
「──失礼、しました」
男はショウタイシに向かって一礼すると、控えていた下官に鍵を渡して陽子の房を開けさせた。
手枷も外され、ようやく身体の自由を取り戻した陽子は立ち上がって格子の外に出る。
なぜこの老爺が陽子の知り合いを名乗るのか皆目見当もつかなかったが、ここから出られるのならば大人しく話を合わせることもしよう。
「この娘が世話になったな」
それだけ言うとショウタイシはさっさと踵を返して先程降りてきた石段に再び足をかけた。
陽子は一瞬迷った後、何も言わずにその背中を追った。
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