彩雲の緋
少女の道
慶という国から留学生が来ているという話は父様から聞いて知っていた。その人が、私と同いの歳の女の子だってことも。
なんでも霄太師のご友人の娘さんらしく、彩雲国の政を学ぶために遠い国からはるばるいらっしゃったのだとか。
――どんな人なのかしら。会ってみたいとは思うものの、自ら宮城へ出掛けるなんてことは出来ない。
でも、今日の食事会には会いたくても会えなかったその人も来てくれるのだ。
今朝寝台で目が覚めた時からもう楽しみで楽しみで、国試はすぐそこだというのに勉強にも手がつかない。
とにかくどこに出しても恥ずかしくないような菜を作らなくっちゃと腕をまくり上げた。
* * *
「……ここですか……?」
陽子はいま紅邸の前に立っていた。
紅家と言えば貴族の中ではほぼ頂点に位置する家柄。しかし邵可は一族とは縁を切ったような状態で、今は娘と家人が一人の三人暮らしなのだと聞いていた。
だから小じんまりとした慎ましやかな家に住んでいるというならまだ分かる。しかしこれは……
「申し訳ないね、なかなか屋敷の手入れにまで手が回らなくて」
本当に申し訳なさそうな顔をする邵可と所々が崩れた土壁を見比べた。その壁はずっと向こうまで延びていて、大貴族の名に相応しい土地の面積を囲っている。
「……これだけ大きいと維持費が相当かかるでしょう。三人しか暮らしていないのだから、使わない部分はいっそ取り壊してしまった方が楽なんじゃ」
金波宮を維持するのにどれだけの手間と費用が費やされているかを知る陽子は思った通りのことを述べた。
しかし邵可は首を横に振ってやんわりと否定する。
「うん、分かってはいるのだけどね。でも、こんな家でも妻と家族みんなで暮らした思い出がだから」
どこか影を含んだ笑みを浮かべた邵可に、陽子は目を細める。
彼の妻はもうずっと前に亡くなったのだと聞いた。
ああ、それでも彼は未だにその人のことを心から愛しく想っているのだろう。声に微かに滲んだ切なさにさえ温かいもの感じる。
「――奥方も、きっと喜んでいるでしょうね」
陽子がそう囁くように言うと、そうだといいな、と邵可は微笑んだ。
――こんなふうに、当たり前のように、その人がいなくなった後までも愛しい誰かを想うような温かさが、慶の民の心の中にもあれば良いと。陽子は、今は遥か遠くの国のことを思った。
自分の、大切な人々と民のことを、想った。
* * *
「お初にお目にかかります。紅秀麗と申します」
「中島陽子です。お父上にはお世話になっています」
第一印象は、格好いい人。着ている衣は多分男物だけど、この人の雰囲気にはとても良く似合っている。真っ赤な髪は太陽のように燃えていて、翡翠色の瞳はどこまでも深く澄んでいる。――とても、自分と同じ年の少女だとは思えない。
秀麗が礼を取りながら名乗ると、陽子も頭を下げて挨拶を述べた。
そんな二人の様子を微笑ましそうに見守っていた邵可が娘の肩に掌を置く。
「こらこら二人共。せっかく同性で同じ年頃の相手に会えたのだから、そんなに畏まることないだろう? もっと友達みたいに話してみてはどうだい」
「でも――陽子さんは国のお客様なのだから」
話してみたいのは山々だけれど、聞きたいことが山のようにあるのは否定できないけれど、自分のせいで他国からの客人に彩雲国に良くない印象を持たれでもしたらと思うとなかなかそういう訳にもいかない。
「いや、私としても気楽に話してもらえたら嬉しい。邵可殿に私と同じ年の娘がいると聞いた時からずっと会ってみたかったんだ」
「ほら秀麗、陽子もこう言っていることだし。――たくさん話してみたいことがあるんだろう?」
そう言われて秀麗は客人の顔を見つめた。彼女の方が背が高いので、自然と見上げる形になる。
「よろしく。秀麗、と呼んでも良いかな」
誠実そうな響きの陽子の声に秀麗はようやく肩の力を抜いて破顔した。
「ええ勿論。こちらこそよろしくね、陽子さん――陽子」
やがていつもの如く食材を抱えた男たちもやって来て、いつもより一人多い人数での食事会が始まった。
「どう、陽子。口に合うかしら?」
彩雲国の料理はあちらの料理によく似ているから口に合わないなどということは勿論ない。
しかも秀麗の作った料理は実に絶妙な味付けがなされていて、宮城の料理人にも劣らないほどの腕前であることが窺えた。
「美味しい。これだけの腕があればどこででもやっていけるだろうな」
舌鼓を打ちながら言ったが、それを聞いた秀麗は固まっている。何かまずいことを言ってしまっただろうか。
「……ごめん。これから国試を受けようって人に言う言葉じゃなかったかもしれない。気を悪くしたのだったら……」
「ううん、そうじゃないの。ただ、そんな風に褒められたのは初めてだったからびっくりしちゃっただけで」
ぶんぶんと激しく首を振りながら秀麗は必死で否定した。
「ありがとう、いいお嫁になれるって言われるよりもずっと嬉しいわ」
そう言った秀麗の顔は本当に嬉しそうに輝いていた。
食事会も終盤に差し掛かった頃。
「そうだ。あの、絳攸様……今日の勉強なのですけれど、申し訳ないのですが……」
「分かってる。陽子殿と話をしたいんだろう? それに今のお前の実力なら一日ぐらい休んだって支障はない」
「ありがとうございます!」
そうして飛び上がる勢いで立ち上がった秀麗は空になった食器を手早く重ねて盆に乗せた。
「じゃあ私、先にこれ片付けちゃって来るわ!」
「手伝おうか?」
「駄目よ! 陽子は今日の主賓なのだからそこで絳攸様たちとお話でもしていて」
「秀麗殿、私は?」
「陽子を口説いちゃ駄目ですからね藍将軍! あ、静蘭そこにあるの全部こっちに持ってきてくれるかしら」
「はい、お嬢様」
盆を抱えた二人が庖厨に消え、邵可は、後は若い者だけでごゆっくり、と言いつつ書斎に引き上げていった。
しかし気になるのは先程の秀麗の言葉だ。
「楸瑛殿は女なら誰彼構わず口説くような女たらしなのか」
それに反応したのは言われた本人ではなく、自称腐れ縁の吏部侍郎。
「知らなかったのか。こいつの頭は年中花畑の常春だぞ」
「絳攸、それはあんまりな言い草じゃないか。私は全ての女性に優しくあろうとしているだけなのに」
「だからそれが常春だと言っているんだ!」
「……一途に秀麗だけを思っていると言うあなたの主とは大違いなんだな」
陽子が呆れ返ったように言うと、楸瑛は妙な笑みを浮かべて陽子の方へ少し身を乗り出す。
「いやいや、そうは言うけれど、主上だって昔はね――」
「おい楸瑛、これ以上彩雲国の評判を下げる気か」
絳攸が渋面をつくって制すが、陽子はこれまでの会話の流れで楸瑛が何を言いかけたのか何となく分かってしまった。
「……へえ。だがその割には世継ぎが一人もいないんだな」
「それにはちゃんと理由があるのだけれど、絳攸がうるさいから言わないことにしておくよ」
そんなこんなの話をしていると、庖厨にいた秀麗たちが片付けを終えて戻ってきた。
「あら、劉輝の話をしているの?」
「そう、秀麗の元夫の話ね」
「私はただの雇われ貴妃だったもの! 報酬だって金五百両、きちんと頂いたのだから」
秀麗は乱暴に椅子を引いて陽子の隣に腰を下ろした。
「秀麗殿、陽子殿に彼の贈り物の数々のことを聞かせてあげたらどうだい?」
楸瑛の言葉に秀麗はくわっと目を見開き、噛み付くような勢いで陽子に向かってまくし立てる。
「そう、聞いて頂戴よ陽子! あの頓珍漢男ったらね、文と称して一行日記を寄越してきたり、大量のゆで卵やら表を塞ぐような大きな氷を送ってきたり――いつかくれた物なんて藁人形よ藁人形! 何がしたいのかさっぱりだったわ!」
「へえ……それはまた、斬新な贈り物だな」
藁人形……想い人への贈り物としてこれ以上に意味の分からない物が他にあろうか。陽子の知る限りだと、女性への贈り物は飾り石や小物が主流のはずなのだが。
「斬新なんてものじゃないわ! あの人、お金の使い方ってものがまるで分かっていないのよ! こんなのだったら後宮にいる間に叩き込んでおくのだったわ」
鼻息を荒げる秀麗に一同は苦笑するしかなかった。彼の感性は実の兄の静蘭にですら計り知れないところがあるのだ。
思う存分叫んだ秀麗は今更ながら恥ずかしさを覚えたのか心なしか縮まるようにして座り、包み込むように持った茶器に口をつける。
陽子も先程秀麗が淹れてくれた茶をすすった。暖かい茶の香りに満たされ、ほうと一息つく。
陽子は空になった茶器を置くと深い翠の瞳を絳攸の方に向けた。
「そう言えば、今度の国試を受ける者の中で女性は秀麗以外にもいるのか?」
「いや秀麗だけだ。まあ突然決まった制度だしな、当たり前だろう」
発案から一年も経たずに実行されたこの制度。
元はといえば王が想い人の願いを叶えたいという下心満載で発案されたものだが、このような類の改革は誰かが強引に進めない限りいつまで経っても堂々巡りの議論に捕われてしまうだけだ。だから、この制度が今回のような形で施行されたのは決して間違いではない。
「……劉輝は私のために、こんなに急いで女人受験制度を作ってくれたのよね。何だか悪女みたいな気分だけど、でもやっぱり嬉しいわ。――ずっとずっと、小さい頃からの夢だったのだもの」
一言一言を噛み締めるように、ゆっくりと紡がれる言葉。膝に乗せられた彼女の両の拳が、小さく震えているのが陽子の場所からは分かった。
次の国試を及第すれば、彼女は史上初の女性官吏となる。その時、官吏としての彼女の傍にはここにいる彼女の師も将軍もいない。
紅家直系長姫の肩書きも、女という更に大きな肩書きの前には何の意味も成すまい。――たとえ周りが彼女の家柄に頭を垂れたとしても、それでは意味がないのだ。
彼女が自身の力で道を切り拓いていかなければ、未来には繋がらないのだから。
「秀麗。あなたが頑張れば頑張るだけ、後の世代の女性たちの道は開けていく。だけどもし秀麗が途中で挫折すれば、女性の朝廷進出は今までよりももっと遠ざかるだろう――あなたの肩に乗っているのは、自身の運命だけではない」
その声は今までよりも一際低く重く響いて聞こえ、秀麗は一瞬だけ体を強ばらせた。
「――ええ。わかっているわ」
秀麗は真っ直ぐに背筋を伸ばすと陽子の視線を正面から受け止め、精一杯の強がりで笑ってみせる。
「私は私の夢のために官吏になるだから。その先にどんなに辛い事があったとしても、絶対に泣き言を言ったりなんかしないの。道を諦めたりなんかしないの。そんなこと、絶対にしたくない」
真っ直ぐな瞳。一点の曇りもない、理想をひたすらに追い求める少女の瞳。
政の世界は残酷だ。血を流さず、誰かを苦しめずに国を保つことなんて到底不可能。世の穢れを知り、そこに浸り、それでも信念を失わずに前へと踏み出すことが出来た者だけが、本当の意味で国の役に立つことが出来る。――彼女もいずれ、そのことを身に染みて知ることだろう。
引き返すことの出来ない道を選んだという点で、陽子と秀麗はよく似ている。ただ大きく違うのは、陽子には半永久の生が約束されているのに対し、秀麗は人間として定められた時間しか持っていないこと。
有限の生の中で、この年若い少女はこれからどれだけのものを築き上げていけるのだろう――
さあ、国試まで、あと――――
(1章 完)
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