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彩雲の緋
王の官吏

「班渠」

陽子が声を掛けると同時に影から浮かび上がるようにして現れた赤い毛並みの獣を前に、清雅は言葉を失っていた。

「取引の道具みたいに扱ってすまないな。引き受けてくれるか?」

「ご命令とあらば」
 
獣は恭しく陽子に頭を垂れる。

大貴族の中には身寄りを失った子供を拾い育て影≠ニ称して護衛や隠密に使う家もある。しかし影≠ヘ普段姿を見せずともれっきとした人間であるし、本当に影の中に潜むことなど出来るはずもない。

混乱した清雅の頭が最初に捻り出したのは単純な問いだった。

「……何故、犬が喋れる。妖か?」
 
陽子は首を傾げる。

「私はこの国の妖とやらを見たことがないから何とも言えないのだけれど、班渠は私の国で妖魔と呼ばれる生き物だ。あなたの言う妖とは違うと思う」

「妖魔」

「説明するのは難しい。私自身も詳しく知っているとは言えないしな」
 
班渠が退屈そうに欠伸をひとつした。失礼を、と残して陽子の影の中に戻る。

二人は班渠が溶けた床板に視線を落とした。

「……今のが、お前の言う手段≠ゥ」

「ああ。情報収集には最適だろう?」

「そうだな……」
 
妖魔とか言う得体の知れない獣を傍に近付けるのに抵抗が無いわけではないが、陽子を主としているのならば勝手に暴れたりすることはないのだろう。

人の言葉を解し、姿を消せる獣。確かに諜報員としてこれほどの逸材はなかなかいない。
 
――お喋りに付き合ってやるだけで仕事がやりやすくなるのなら、割の良い取引だ。


* * *


御史大夫室にいつもの如く入り浸っていた晏樹は手近な椅子に腰掛け、片手で好物の桃を弄んでいた。

「ねえ皇毅。異国のお嬢さんはいつの間に清雅と仲良しになっちゃったの?」。
 
皇毅は料紙に滑らせる筆を止めないまま、視線だけを腐れ縁の男に寄越す。

「会ったのか」

「この室から出てくるのが見えただけ。何を話していたの?」

「清雅が留学生に御史台の解説をすることを引き受けたそうだ。過去の調書の一部を閲覧する許可を出した」
 
淡々と言う皇毅に晏樹は猫のような目をついと細める。

「ふうん。でもあの清雅が無償でそんなことするなんて信じられないよね。しかも相手は女の子だよ? もしかして清雅ってば、彼女が女だってことに気付いていないのかな」
 
あの陽子という留学生が着ている衣はどう見ても男物だし、所作にだって女性らしいところが微塵もない。有り得ない話ではなかった。

しかし皇毅はそれを否定する。

「それはない。あいつのことだから恩を売っておこうと思って引き受けたか、あの留学生がめぼしい情報を握っていたかだな」

「まあ、そうだろうね」
 
御史台長官の秘蔵っ子とまで言われる清雅がそんな些細なことに気付かない筈がない。
 
晏樹は納得すると立ち上がって皇毅の几案に桃を置く。

「あげる」

「いらん。持って帰れ」

「えー。じゃあ噂のお嬢さんにでもあげようかな。清雅の室にいるの?」
 
返答を待たずに扉へと向かった晏樹に皇毅は深々と溜息を吐いた。が、すぐに目線を移して手元の資料に集中する。 
 
――もうすぐ、国試が始まる。
 
女人受験者は一人、紅家の長姫のみ。彼女が及第すれば奸臣どもは派手に動き出すだろう。それに留学生の性別が知れ渡るのもおそらくは時間の問題。

腐った根を一掃するためにも、今のうちに隅まで手を回しておかなければならない。


* * *


御史台長官室から戻った後、二人は再び清雅の室にいた。

喉の乾いた陽子が備えてあった茶器で二人分の茶を入れる。

清雅はその茶に口をつけると顔を顰めて「不味い」と一言。陽子の分まで取り上げるとさっさと自分で淹れ直してしまった。

陽子は清雅が淹れ直した茶を受け取った。同じ茶のはずなのに、陽子の入れたものよりも格段に芳しさがある。
 
口に含むと染み渡るような爽やかさが体を満たした。
 
――玉葉のお茶と同じぐらい美味しい。

「器用だな」
 
と言うと、刺すような目で睨まれた。陽子は軽く肩をすくめる。



やがて、コトリ、と音を立てて陽子が茶器を卓に置いた。

「――王の官吏、と言うそうだな」

その声はひどく静かで、清雅もつられて茶器を置く。

「誰がそう言い始めたのかは知らない。が、確かに御史はそう呼称されることもあるな」

「で、その心は? 見たところ王に絶対の忠誠を誓っている訳でもないようだけれど」

「忠誠を誓うのは王の花≠フ仕事だろ。俺たちはただ不正に勤しむ三流官吏どもを吊るし上げるのが役目だ。多分だが、奸臣におもねることのないという意味を込めてそう言うんじゃないのか」
 
成程な、と陽子は頷いた。

「だが、御史の中にだって不正をする者ぐらいいるだろう?」

「いるな。だがそんな奴は身内の手で牢に押し込められるだけだ」

「御史が不正をすれば同じ御史がそれを暴く、と。――では、御史台長官が不正をした時には?」

清雅は片眉を上げた。腕を組み、面白そうな声を上げる。

「皇毅様はそんなことはしない……が、もしその時にはこの俺が長官の椅子から引きずり下ろす。それはあの方も、重々承知だろう」

口の端を持ち上げて、清雅は高慢な笑みを浮かべた。

今まで清雅のような人間が近くにはいなかった陽子は新鮮な気分でその顔を見る。
 
清雅が官吏をしているのは王の為でも民の為でもなく、恐らくは偏に自分の為。それなのに彼の行いは確かに朝廷の秩序を保つのに一役買っている。それがたとえ、他人を潰し地位をのし上がるための行動の結果だとしても。
 
御史台の果たす機能に改めて感心しながら、陽子は卓に肘をついた。

「官吏の罪を暴くのは御史台、裁くのは主に刑部か」
 
口に出すと同時に、脳裏に浮かんだのは別の疑問。

 
では、王の罪を裁くのは誰だ?


その問いを紡いだ陽子の瞳に底が見えず、清雅は一瞬息を詰まらせる。血を連想させる赤の髪が視界をちらついた。

「……お前の国では王を裁くための則があるのか?」
 
逆に問い掛けるも、陽子は曖昧な笑みを浮かべてそれに答えなかった。奇妙な沈黙が室を満たす。

「人が来ます」
 
押し殺した低い声は床から上がったものだ。

「高官らしき、髪を結っていない男です」
 
班渠の言う人物に心当たりを覚えた清雅は軽く溜息を吐いた。そんな清雅を陽子がちらりと見ると同時に室の扉が開く。

「やあ、こんにちは」
 
現れたのは波打つ髪を背中に流した、やけに甘ったるい雰囲気を持つ男。
 
予想通りの人物に清雅が立ち上がって礼を取った。

「晏樹様。何か御用ですか」

「うん。ちょっとそこの彼女に会ってみたくてね」
 
椅子を立った陽子に晏樹は袖から桃を出して差し出す。

「初めまして、中嶋陽子さん。僕は凌晏樹。お近づきの印にこれをあげよう」

「ああ……これはどうも。……桃?」
 
甘い芳香のする果実を両手で受け取ると、何故か清雅が顔をしかめたようだった。

「そう、僕の大好きな桃。でも自分で皮を剥いたらベタベタするのが嫌いなんだ」

何が楽しいのかにこにこしながら陽子を眺めている男に、陽子は反応に困って、そうだな、とだけ返した。

「清雅に御史台のことを教えてもらうんだってね。あ、もしかして僕、話の邪魔しちゃった? ごめんね、今日はそれを渡しに来ただけだから。でも次に会ったときには剥いて食べさせてくれると嬉しいな」
 
それだけ言うと晏樹は手をひらひら振って室から出て行った。その背中を陽子と清雅は無言で見送る。

ややあって、桃を持ったままの陽子が零すようにぽつりと言う。

「……彩雲国には無駄に個性が強い人間が多いな」

「……他には誰のことだ」

「六部尚書とか……。いや、面白いから良いんだけどね。私の国にはなかなかいないような人材ばかりだ。貴族社会のなせる技か? いやそれより、平民の官吏が極端に少ないのはやはり頂けない……」
 
顎に手を添えてぶつぶつと考え始めた陽子を清雅は奇妙な面持ちで見つめていた。

国の制度や政策について考えるのは一般の官吏の仕事ではない。まさかとは思うが、この女は自国ではかなりの地位にいたのだろうか。そうでなければ、金持のただのお遊びとしての勉強か。

時折耳慣れない単語が飛び出すのは陽子の国の独自の言葉だろう。

「おい。考え事をするなら帰れ。俺も暇ではないんだ」

その声に陽子はやっと顔を上げた。

「え? ああごめん、じゃあ今日はもう戻るよ。また今度な。班渠を借りたくなったら文でも寄越してくれ」
 
客人のいなくなった室は急に静かになった。
 
清雅は執務机に戻って、今手掛けている案件の資料を手に取る。

集めなければならない証拠がまだ十分に揃っていない。すぐにあの班渠とか言う獣に頼るのは屈辱だから、本当に入手が困難な情報を知りたい時にだけ利用することにしよう。

思いがけず留学生との間に築かれた奇妙な関係を思い返しながら、清雅は再び自分の仕事に戻った。



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