彩雲の緋 禁軍 目の前に、既に見慣れた室の天井があった。 ――……あれ。 いつの間に室に戻ったのだったか。やたら酒の臭いがきつい工部に行って、ちょっと話をして、それから……。 飛翔に勧められた酒に口をつけて、そこからの記憶がない。 それはつまり、 「倒れたのか、私……?」 一人で呟くと、頭の奥で微かに鈍痛が走った。これが二日酔いか。こんなに酔うほど呑んだことは今までになかった。 しかし一口で意識を失うなんて、どれだけ強かったのかあの酒は……。 「班渠」 呼びかけると赤い犬が姿を現した。 「主上、ご気分はいかがですか」 「うん、ちょっと頭が痛むぐらい。――参ったな、まさかたった一口で倒れるなんて。昨日、あれからどうなったんだ?」 息を吐いて髪をかき上げながら問うと、くつくつと班渠は含むように笑った。 「その場で意識を失われた主上を、工部尚書がここまで運ばれました。それと、卓の上に文が」 班渠の言う通り、卓には折り畳まれた文が一つ置かれていた。 紙を開くと、豪快な字で綴られていたのは昨日の謝罪と、吏部への書簡は無事届けておいたという旨。 「吏部……そうだ、そっちも頼まれていたんだった。悪いことをしたな」 「主上に落ち度はないと思われますが」 そうかな、と陽子は笑った。 「久し振りに外の空気が吸いたい。禁軍の演習でも見学に行こうかな」 「左様ですか」 陽子はふと部屋の隅に隠すように立て掛けられた愛刀を手に取った。 あの日以来、慶の様子を知りたいと願って何度も幻を引き出そうと試みてきた。けれど水面の刀身が映し出すのは既に見知った過去ばかり。 どんなに願っても、陽子が消えた後の金波宮を水禺刀は映してくれない。 陽子は溜息して水禺刀を元の場所に戻した。主上、と班渠が気遣わしげな声を上げる。 「なんでもないよ」 自分に言い聞かせるような声で陽子は呟いた。その声に交じるのは苛立ちと焦りと、僅かな悲哀。 「なんでもない。……出ようか」 室の外へと足を向けた主の背中に、班渠は何も言わずその影にとけて姿を消した。 * * * その日の羽林軍には珍しい客人があった。 朝廷で今一番の有名人でもある、緋色の髪の留学生。 霄太師の知り合いだという彼は政を学びに来たのかと思いきや武術にも心得があるらしく、邪魔でなければ演習を見せてもらいたいと申し出てきたのだ。 「陽子殿は剣が専門らしいですね」 やけに幼い顔立ちをしたそばかすの男は皐韓升と名乗った。 「よろしかったら演習に参加しませんか。剣ならお貸ししますよ?」 そう言って韓升は訓練用の簡素な鉄剣を差し出す。 「いいのか?」 「もちろん。皆もいつも同じ顔ぶれで手合わせしていては飽きるでしょうし」 陽子は鉄剣を受け取った。 水禺刀を手にした時の吸い付くような一体感はなく、慣れない重量が負荷として加わる。が、自在に振り回せぬ程の重さでもない。握り込んで宙を薙ぐと、久々に耳にした風を切る音が心地良かった。 「おおい! 陽子殿が手合わせに参加なさるそうだぞ!」 韓升がそう叫んだ。 武官たちの間にどよめきが走る。打ち合っていた者たちも手を止め、陽子に見定めるような視線を向ける。 ――これは、下手な姿は晒せないな。 楸瑛は羽林軍の演習場へと向かううちに、平素とは違う異様な熱気が満ちていることに気が付いた。 演習場にたどり着いてみれば、なにやら人だかりまで出来ている。 「おい、昂絃が負けたぞ!」 「あと一人で十人抜きだな」 「凄えな……次は誰が行くんだ?」 左右羽林軍のむさい男どもが取り囲む円の中心では、丁度試合が終わったところのようだった。 楸瑛は人垣の中心にいた人物を認めて驚きに目を見張った。 高く括った緋色の髪を汗で首に張り付かせているのは、すっかり顔見知りとなった留学生の若者――いや、少女。 それと向かい合って項垂れるように剣先を地に向けているのは昂絃という左羽林軍の武官だ。 「おらァ陽子に負けた奴はこっち来い! その不抜けた根性を根っこから叩き直してやる! 今日は帰れると思うなよ!」 両大将軍たちはそこらに転がっていた敗北者らしき男たちの首根っこを掴んで力任せに引きずっていく。 成す術もなく連れ去られていく彼らはこれから訪れる地獄の鍛錬を思って悲痛に顔を歪めていた。 ――ご愁傷さま。 哀れみの目を向け、そう胸の内で呟くも実際に声に出すものはいない。……楸瑛も、もちろんその内の一人だった。 集まっていた男たちの幾人かが楸瑛の姿を認めて声を上げる。 「あ、藍将軍!」 「ついに将軍のお出ましですか!」 人だかりが割れて、楸瑛のために中央の空間までの道が開いた。 陽子が顔を上げ、湿り気を帯びた前髪を掻き上げる。 「楸瑛殿じゃないか」 「私とも一手、お相手願えるかな」 にこやかに問うと、陽子も笑みを返す。 「もちろん」 始め、と合図が下った。 金属のぶつかり合う甲高い音が空気を裂く。 首を狙って繰り出された斬撃を楸瑛は剣の腹で受け流した。蛇のように体を捩って陽子の背後に回り込もうとする。陽子は瞬時に地を蹴って楸瑛から距離を取った。 ――強いな。 楸瑛は心中で感嘆していた。普段の身のこなしからしてそれなりに腕が立つだろうとは思っていたが、まさかこれほどとは。 再び距離が詰められ、火花が散る。 翡翠と藍玉の瞳が交錯した。ふたりは愉しむような色を互いの瞳に見る。 息をつく間もない攻防。 そして、ついに楸瑛の剣が陽子の喉元を捉えた。 「……参った」 陽子はゆっくりと両手を挙げて、降参の意を示す。楸瑛は剣を引き、張り詰めていた緊張を緩める。 陽子は地に落とされた剣を腰を屈めて拾った。 「腕には少し自信のあったのだけど、やはり将軍には勝てなかったか」 「いや、今回は陽子殿に分が悪すぎたよ。獲物も自分のものではないし、何より疲労が溜まっているだろうからね」 実際、条件が同じだったならどうなっていたか分からない。実力はおそらく楸瑛と互角――いや、もしかすると彼女の方が勝っているかもしれない。 剣を合わせてみて分かった。彼女は命のやり取りに慣れている――慣れすぎている。 けれどあの太刀筋は紛れもない武人のものだ。兇手でもない若い娘が手を血に染めなければならないような理由が、楸瑛には思いつくことが出来なかった。 * * * 夕方、演習場を後にした陽子は湯を借りて真新しい衣に身を包んだ。 陽子の着物と言えば最初に着ていた袍しかなかったのだが、気が付けば部屋の衣装棚に見覚えのない衣が次々と増えている。霄太師が言って用意してくれたのだろうか。 「疲れた……」 寝支度を整えると、陽子は牀榻に倒れ込んだ。 明りを消しても、窓から差し込む月影が室全体を青白く浮かび上がらせている。 「すとれす≠フ発散にはなりましたか?」 どこからか聞こえた声に、陽子はそっと微笑んだ。 やり切れない出来事がある度に捕まえて、八つ当たり紛いの稽古に付き合わせていた彼の左将軍の顔を思い出す。 「うん、大分すっきりした。やっぱり体を動かすのは大切だな」 考えるのが苦しくなった時や、考えても意味をなさない時には、何も考えられないぐらい疲れて果てるのが一番だ。そうするだけで少しは楽になれるから。 「おやすみ」 掛布を被って、目を閉じた。 これできっと今日は、何も考えずに眠れる。 [*前へ][次へ#] [戻る] |