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彩雲の緋
酒豪
――さ、酒くさっ……。

まずは戸部から比較的近かった工部に向かった陽子。

不思議なことに目的地に近づくにつれて明らかに酒の臭気が増していくようだ。

陽子は酒が飲めないわけではないが、あまり嗜む方ではなかった。
休憩時に普段口にするのも、もっぱら茶や果汁――つまりジュース――であり、杯に口をつけるのは誰かに誘われた時だけだ。

ちなみにその筆頭は延王だったりする。

――臭いだけで酔いそうだな……。

工部に入ると一層凄まじい酒気が陽子めがけて波のように襲ってくる。

臭いの元はどこか、と首を巡らせてみても酒瓶らしきものは見当たらない。それとももっと奥だろうか。

この濃厚な酒の臭いをものともせず工部官は各々の仕事にいそしんでいた。

そのうちの一人に声を掛けると、やはり陽子がいるのが意外だったのか目を見開いてあっと声を上げる。

「尚書への書簡ですか。だったら僕が渡してきますよ」

「いや、直接渡すようにと黄尚書に言われたから」

それに陽子自身も柚梨にああまで言わせる管尚書なる人物に是非とも会ってみたい。

彼はそうですか、と言うと陽子を尚書室まで案内してくれた。

尚書室の扉を開けると、中では怒号と酒瓶の嵐。

……なぜ職場に酒瓶が転がっているのだろうか。それも尋常ではない数が。

「だから何度言ったら分かるんですか! ここの道の建設にはこれだけの木材が絶対に必要だと言っているでしょう!」

「使い回せるだろ、そんぐらい」

「効率性が落ちるんです。ここの工期は普通より短めなんですからね」

酒瓶片手に大柄な男と、やけにじゃらじゃらと飾っている男が大きな図面を挟んで声を荒げていた。

おそらく工部尚書だと思われる大柄な男がまた一本酒瓶を干し、無造作に床に投げ捨てる。その瓶は転がっていた別の瓶にぶつかってガチャンと音を立てた。

「えーと……ちょっといいかな? 戸部から書簡を預かってきたんだが」

陽子はむせ返る酒気に咳き込みそうになりながら声を掛ける。

「おい陽玉、誰か来てるみてえだぞ」

「玉です。何度言ったら分かるんですかこの鶏頭」

陽玉と呼ばれた男――おそらく本名は玉――が陽子を振り返った。

尚書宛の書簡にざっと目を通すと眦をつり上げてそれを上司の几案に叩き付ける。

「ちょっとあなた、ふざけているんですか。こんな予算出したら黄尚書に切って丸めて捨てられるに決まっているでしょう!」

「ああー、やっぱ駄目だったか」

「分かっているなら最初からやらないでください! ほら、とっとと書き直して!」

そうそう、と陽子は黄尚書に言われたことを思い出す。

「戸部尚書が『ふざけるな、酒の飲みすぎでついに脳みそまで発酵したか』と伝えてくれって」

「くっそ、あいつめ……」

新しい酒瓶に手を掛けた尚書が大人しく筆を執っている間に、陽玉――ではなく玉は陽子に向き直った。

「それにしても何故留学生のあなたがこんな書簡運びをしているんです?」

「府庫から戸部に書物を届けて、戻るついでに届け物を預かったんだ」

「そしてついでに各部署の中を見物したいという肚ですか」

「まあ、そういうこと」

スパッと切り込まれて陽子は苦笑を浮かべた。

次いで先程からずっと気になっていたことを口にする。

「工部尚書はいつもああやって酒を飲みながら仕事をしているのか?」

「そうなんです、ふざけているでしょう? 衣に臭いが染み付くしいい迷惑ですよ」

「やるこたァやってんだから酒ぐらい良いだろ。買うのもちゃんと全部自腹じゃねえか」

カタンと音を立てて尚書が筆を置いた。空の酒瓶がまたひとつ床に投げられる。

「出来たのですか?」

「出来た出来た。ほら、これなら文句ねえだろ?」

玉は無造作に突き出された書簡を奪い取って目を通すと、まあいいでしょうと言って突き返した。

「お前確か、陽子とかいう留学生だったな。俺は管飛翔ってもんだ」

「そう言えば私も名乗っていませんでしたね。侍郎の欧陽玉です。姓が欧陽、名が玉ですから、くれぐれも間違えないように」

わざわざ念を押すということは余程間違えられることが多いのだろうか。――さっきも管尚書が陽玉≠ニ呼んでいた。

「あなたの名前は中島陽子でしたね」

「やっぱり知っているんだ」

「有名人ですから。留学生なんて滅多に来るものでもありませんし」

「おまけに女だし?」

すると玉は呆れたような顔つきになって陽子の姿を眺めた。

「あなた、傍目に自分が女性に見えるとでも思っているのですか?」

「……」

確かに陽子は自分の普段の外見が少年と見られやすいことを自覚している。
雲海の下を歩いていて露店から掛けられる声はそこの兄ちゃん≠竄辯坊主≠竄轤ェ殆どだ。

これは、もしかすると――

「もしかして、私が女だということは知られていないのか?」

まさかと思いながら問うた言葉に玉は大仰に頷く。

「当然です。こんな時期に外朝を女性がうろついてみなさい、あなたおそらく明日には命がありませんよ。――でもまあ、気付く人は気付いているでしょうがね」

飛翔は棚から杯を取り出すと大きな酒瓶から透明の液体をなみなみと注ぎながら言った。

「留学生は客だ、別に国の政に関わるわけじゃねえ。男だろうと女だろうと、客は客だ。やたら目くじら立てる連中の気が知れねえな」

「まあ、少なくとも今度の国試とは何の関係もありませんね」

飛翔は、杯を陽子の目の前に勢いよく置いた。液面が揺れて、零れた水滴が几案を濡らす。

「まあ飲め。客人への歓迎の証だ」

陽子は反射的にそれを受け取る。室を満たす酒気で嗅覚が麻痺していて中身の判別がつかないが、酒であることには違いないだろう。

「今はまだ勤務時間中だろう?」

そう言って躊躇った陽子に飛翔は大笑した。

「そんな今更なことを言うなよ! それに飲むのはお前だから問題ねえな」

それもそうだと陽子は笑う。

杯を持ち上げると縁に唇をあてがい、水よりも粘性の高いその液体を喉に通した。


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あきゅろす。
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