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彩雲の緋
使い

「陽子。もし良かったら、この書物を戸部まで届けてきてくれないかな?」

それは陽子にとって初めてのお使い≠セった。

そう言う邵可に手にあるのは分厚い書物が三冊。

「一刻前に来た戸部官に頼まれたんだけどね、探すのに少し手間取ってしまって。戸部は忙しい部署だから、後で届けると約束して先に戻ってもらったんだよ」

陽子は二つ返事で了承した。この間散策した時には流石に部署の中までは入れなかったが、届け物ならうまくすると入口から入れる可能性がある。

「戸部というと、財政や戸籍の管理でしたか。私の国で言う地官府に近いのかな」

陽子は常から持ち歩いている手帳を取り出し戸部の概要を確認する。

金波宮に入った当初、同じことをしていて景麒に嫌な顔をされていたことを思い出した。でも王の威厳のなんたらかんたらは、ここでは関係ない。

――景麒。祥瓊、鈴、浩瀚、遠甫、桓たい、虎嘯、楽俊、……みんな。

どうしているだろうか。こちらの時とあちらの時が連動していないならば、あちらの時間は止まっているだろうか。それとも私がいなくなってからも時間は流れ続けているのだろうか。

「陽子?」

「ああすみません、少し考え事をしてしまって。――じゃあ行ってきます」

府庫を後にすると、地図を頼りに戸部へと向かう。

黎深の視線が相変わらずチクチクと飛んできていたが余計な物体は飛来してこないのは有り難い。――やっと飽きたのだろうか。

官吏や侍童からの奇異なものを見る目はいつものことなのでもう慣れた。剣で鍛えられた右腕に結構な重量のある書物を抱え、左手で器用に地図を広げながら目的地を目指した。



「すみません。府庫から書物を持ってきたのだけど」

戸を叩いて声をかけるが返答がない。勝手に入って良いのだろうか。

――人がいないわけではないようだけど。

そっと音を立てないように扉を開くと、やはり人はいた。いることにはいるのだが――

「魔の戸部――成程、こういう意味か」

呟いた声もおそらく誰の耳にも届いていないだろう。

山をなす書簡。人の声は一切なく、聞こえるのは紙が擦れる音と算盤の珠がぶつかり合う高い音のみ。
一人あたりに一体どれだけの仕事量が割り振られているのか見当もつかない。

しかしこのままでは埒があかないので陽子は取り敢えず一番近くにいた中年の官吏に声をかけてみることにした。

「あの、ちょっといいですか」

「はいっ!? ――あれ、あなたはもしかすると噂の留学生……」

急に話しかけられた男は目を丸くして顔を上げると陽子を見つめる。

「ええと、府庫の使いで来たんだ。この書物を届けるように言われたのだけど」

男は頭を掻きながら陽子が差し出す書物を検分する。

「ああ、これは尚書が探していたものですな。尚書室に持って行ってください」

「尚書室って?」

「あちらの奥ですよ」

それだけ言うと彼はまた算盤を手に取ると素早い手つきで計算を再開するのだった。

陽子は礼を言うと示された方へと足を向ける。
資料や書付がされた料紙が散らばる机の数々をすり抜けながら戸部の奥へと向かった。

しかし、よそ者にこんな奥の方まで踏み込ませても良いものなのか。機密事項だってあるだろうに。――ああ、それとも単に手が空いた人がいないだけか。

教えられた通り尚書室に着き、扉を二度叩くと今度は少しくぐもった男性の声で返事があった。

「入れ」

促され、扉を開けて入室する。

「府庫から頼まれた書物を持って来たのだけど」

「ああ、すみませんわざわざ」

陽子を出迎え、書物を受け取ったのはさっきの声の男ではなく、人の良さそうな顔をした三十中頃の男だった。

「あなたが留学生の陽子殿ですね。私は景柚梨、ここの侍郎をしています。そしてあちらが尚書の黄奇人です」

にこやかに名乗った男が示す奥の机案に目を向けると、そこでは長い絹糸のような髪を垂らした人間が目にも止まらぬ速さで筆を滑らせていた。

「黄尚書、折角お客が見えたのですから少しは手を止めて挨拶でもしたらどうですか」

いや書物を届けに来ただけなのだからそこまで気を使わなくても、と遠慮しようとした声は顔を上げた黄尚書によって喉元で固まってしまった。

――仮面?

男の顔に張り付いているのは白を基調とした奇妙な物体。

何故そんなものを、と思う前に自然と口をついて出てきてしまった問いは、

「もしかして、女性なのか?」

瞬間、柚梨が吹き出す。声を上げるまいと努力しているようだったが肩が傍目にも分かるほど震えている。

「柚梨」

顔が見えなくとも黄尚書の機嫌が悪いことは声で分かった。

「す、すみません。あんまりおかしかったので、つい……。陽子さん、彼はれっきとした男性ですよ」

「ああそうか、朝廷はまだ女人禁制だったな」

そんな当たり前の事にも気付かず彼を女だと思ってしまったのは、彼が男性にしては華奢な体つきをしていることと艶のある黒髪があまりに美しかったためだった。ぬばたまの髪、というのはこういうのを言うのだろうか。

「何故そんな仮面をしているのか、と訊いてもいいのかな」

「……」

黄尚書は明らかに沈黙する。柚梨が溜息混じりにそっと零した。

「別に顔に傷があるとか、そういう理由ではないのですけれどね……本人の心の問題、というのもありますけど、一番は周りのためでしょうか」

陽子は首を傾げた。

黄尚書を見ると既に自分の仕事に戻っている。柚梨はやんわりと微笑んだ。

「直接見てみるのが早いんですけれど。それはちょっと勘弁してやってください」

まあ、人には他人に踏み込まれたくない部分の一つや二つあることだろう。柚梨は彼の仮面の理由を知っている様子を知っているようだが、本人が知られたくないのなら仕方がない。――周囲のために仮面をしている、という部分がすごく気になったが。

ともかく陽子の用事はこれでもう済んだ。

「何か、他のところに持っていく書簡とかがあったら持っていこうか?」

余計なことを承知でそう申し出てみると、意外なことに間髪いれずに黄尚書は書簡の束を目の前に積み上げた。

「これを吏部、こっちを工部に届けて欲しい」

「ちょ、ちょっと、ほう……」

うっかり彼の本名を呼びそうになってしまった柚梨は慌てて口をつぐむ。幸いにして陽子の耳には届いていなかった。

「吏部と工部だな、わかった。自分で申し出ていてなんだけど、余所者の私がこんな仕事をして大丈夫なのだろうか?」

「普通は侍童にさせる程度の仕事だ、問題ない。――それにお前も部署を見学したくとも、用事がなければ入っていくことすらできないだろう?」

それはその通りだ。するとこれは彼の親切心からのことだったのか。

「ありがとう」

「あと、こっちのは直接工部尚書に渡して『ふざけるな、酒の飲みすぎでついに脳みそまで発酵したか』と伝えてくれ」

「――へ?」

思わぬ罵声が聞こえて陽子は思わず耳を疑ったが、黄尚書は言ったとおりにすれば良い、と言うだけだった。

それまで口を挟まなかった柚梨がちょっと待ってくださいよ、と声を上げる。

「なんでよりによって吏部と工部なのですか。しかも管尚書に会えだなんて」

「いけないか」

「いけません。わざわざ他国からの客に自国の後ろ暗い部分を見せることはないでしょう」

「……お前も言うようになったな」

きっぱりと言い放つ柚梨に黄尚書は溜息する。

しかしその会話を聞いていた陽子は俄然その工部尚書だという人物に興味が湧いてくるのだった。

「とにかく行ってくる。こっちのが工部でこっちが吏部だったな」

「あ、ちょっと!」

柚梨が手を伸ばして止めようとした時にはもう陽子は尚書室から出て行った後だった。



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あきゅろす。
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