彩雲の緋
蝕
景麒と浩瀚を説き伏せて数ヶ月振りに雲海の下に降りてみた。
陽子の即位から今年で二十年。まだまだ気は抜けないものの、ここ数年は内乱も減り、民たちの顔にも明るい表情が多く見られるようになってきた。
最近では「懐達」の言葉を耳にすることも少ない。
陽子は立ち並ぶ市の数々や行き交う老若男女の姿を目に焼き付けるようにしながら、ゆったりと歩を進めていく。
こうやって自分の足で土を踏みしめ民の生活を生き様を間近で見ていると王であることの重責がどれほどのものであるかを思い知らされる。
黄色い花のついた枝を抱えた十くらいの年の女の子とその弟らしき男の子が笑いながら陽子を追い越し通りを駆けていった。
知らず、陽子の口元に笑みが浮かぶ。
そう、自分が玉座の上にいるのはあの子供たちの笑顔を守るためなのだ。そしてこんな風に時偶街に下りることで、その笑顔を目の当たりにすることができる。
一人の人間として、女としての幸せを手にすることはもうできないけれど、これも一つの幸福の形なのかもしれないと、そう思った。
* * *
ひと通り街を見て回った後、少し足を伸ばして瑛州最大の大きさを誇る湖まで来てみた。
あまり遅くなるとあの口煩い半身から後でこってり絞られるかもしれないが、まあ少しぐらいいいだろう。
水禺刀もちゃんと持っているし、班渠もいるから万が一のこともないはずだ。
陽子は湖の縁に手をついてその澄んだ水面を覗き込んだ。
柔らかな風に微かに波を立てる水面に自分の翡翠の瞳と緋色の髪が映る。よくよく目を凝らすと意外と浅そうな水底で水草がゆらゆらと揺れ、その間を小さな魚が身を震わせて通り過ぎていくのが見えた。
暫くの間そうして水面を覗き込んでいた陽子はふと言いようのない感覚に襲われ、立ち上がって周囲を鋭い視線で見渡した。
『主上、お気を付けください』
足元の影から班渠の警戒を滲ませた低い声が上がる。
「なにか来るな……」
その時、唸るような音を立てて池の水が宙に巻き上がった。
地面が細かく振動し、陽子は立っていられなくなって地面に片手をつく。重い風が草をなぎ倒し、木々を揺らし、湖の豊富な水をうねらせ周囲に撒き散らす。頭から湖水を浴びた陽子は体を震わせた。
――蝕か!
とにかく安全な場所に移動しようと姿勢を低くして駆け出そうとする。
しかし踏み出した足元の地面は急に質感を失くし陽子の体は支えをなくして大きく傾いだ。
――な……?
浮遊感に包まれる体。何がなんだかわからないまま、視界が暗闇に侵食され、五感が狂う。
完全なる闇と静寂を最後の記憶に、陽子の意識はふっつりと途切れた。
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