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―――それは、そこから僅か数歩ばかり移動した場所で見つかった。
今までの苦労は何だったのかと言いたくなるほどに呆気なく。

獣の牙だろうか、それとも逃走時に枝で引っ掛けて破れたのだろうか。
元は淡いピンク色していたワンピースは無残にも所々千切れ、いつの日にかお気に入りだと嬉し気に笑ってお披露目してくれた姿は今や見る影もない。

年頃の女の子らしくいつも綺麗に編まれていた亜麻色の三つ編みは泥にまみれて崩れ、逃げる途中で何度も転んだり傷ついたのだろう細い足には、大小さまざまな擦過傷が付いている。
靴は片方がなくなり、片方の足は向いてはいけない角度へねじ曲がっていた。

虚ろに宙を眺めるその目を、もう閉じられることが無いそれを。そっと、指先で瞼をおろした。
触れた指先で撫でた瞼の感触に、本当はまだ体温が残っているんじゃないかと、まだ動くのじゃないかと錯覚したくなる。

それでも見下ろした先の、食い破られた腹に、痛いほど現実を突きつけられるのだ。



「遅くなって、ごめんなあ」



サシュ。



―――苦しんだだろうか。あれほど無垢な信頼を寄せてくれていたのに、助けに現れない俺を、危機に駆けつけられなかった俺を、失望して恨んだだろうか。

その稚く可愛らしい顔には不思議なほど傷らしい傷は無く、血の気の失せたまろい頬をそっと指の腹で撫でる。
苦しまないはずがなかっただろうに、その表情はいっそ穏やかな風にすら見て取れた。
顔だけ見れば寝ているだけなのだと、今にも起き出してくるんじゃないかと、そう思いたくもなる。

けれども。


    腸が、骨が、血が


まともに直視してしまったそこに、久し振りに咽喉奥から嘔吐感が込み上げてきた。


「うぶ、うぇ、っぐうぅぅ」


慌てて目を逸らして堪えようとするも、せり上がる強烈な嘔吐感を堪えきれずに胃の中の物を全てぶちまけてしまった。
喉を焼く不快な酸と苦みに、苦しさにかこつけて、ぎりぎりで踏みとどまっていた涙がここぞとばかりにぼろぼろと落ちてくる。

この世界に来てから、身近な人が死んだのは初めてだった。
あっちの世界では祖母が老衰で亡くなった為葬式に出はしたが、こんな凄惨な末期では勿論無い。それこそ眠るように亡くなったのを、ただ見送っただけだった。

この世界の理不尽を、わかっていたつもりだったのだと思い知る。
わかっていたつもりだっただけで、本当のところでは理解出来はしなかったのだと。

「う、うう、うえ、えぐ」

傲慢だ。俺はなんて傲慢だったのだろう。
手の届く範囲の人間だけでも守りたいとか、ちょっとでも力になれればいいだとか、そんなあまっちょろいことを押しつけがましく勝手にやる気になって。
剰え守り切れなかっただなんて勝手に落ち込んで。

本当に大事で、本当に守りたいのだったら、あの時キコ村に留まる選択をするしかなかったのだ。
誰に何と言われようとどうなろうとも、それこそこの二人の一生を背負うつもりで、ガルドに嫁入りでもなんでもすればよかった。

それこそ自分が日本へ帰る手段を探すという目的を、反故にしても。

その覚悟ができない俺は、あんなに二人に深入りすべきじゃなかったのだ。


「……【ヒール】」


失ったものは取り戻せない。
それでも、それでも俺は諦められなかった。往生際悪くまだどうにか出来るんじゃないかなんて、俺のこのレイとしての能力があればまだサシュを助けられるんじゃないか、なんて。

サシュに向かって発動した【ヒール】の淡い緑光が留まらずにふわりと霧散してしまって、魔法がちゃんと行使できなかったのだとわかった。
現に彼女の体には、何ら変化がない。

「【ヒール】【ヒール】【ヒール】、【グレーターヒーリング】【エクストラヒーリング】【癒しの風】【地母神の祈り】【インペリアルヒーリング】……」

死んでいる人間には、回復魔法が効かない。

思いつく限りの回復魔法を幾ら唱えても、そのどれも効果が発揮されなかった。
そんな当たり前の事本当はわかっていたけれど、それでもどうにか何か手立ては無いのかと、何度も何度も回復魔法を唱えた。

しかしそのどれもが虚しく空に散っていくのを、呆然とやりきれない思いで眺めていた。


「……くそ、くそ、くそがっ……ちくしょう、」


こんな傷一つ治せないで。

なにが”守る”だ、と。

所詮俺は平和な日本で暮らしていたごく平凡なただの男でしかなくて、レイ・ノルンファウストの肉体に成っている今だとて、その魂は相変わらずごく平凡なただの俺でしかないのだと。

そんなただの男に何が出来る。

ただ、無力を思い知っただけだった。


「ぅ、うう、ううぅ、うあ、うあああああああああああああああアアア」


もう、駄目だった。

この世界に来てから沸々と澱のように溜まっていたものが、サシュの死でどこかがぽっきりと折れてしまったかのように、止めどなく溢れ出してしまった。


「うう、う、ふ、ぅあ」


―――帰りたい。
帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい。


泣き喚きながら帰りたいと叫ぶ。地面を殴りながらどうして俺が、と誰かを詰る。
蹲って胎児のように丸まりながら、誰かが助けてくれるのを待って居たい。
こんな世界が本当は夢でしかないのだと、笑って可笑しな夢を見たのだと友人に話してまわりたい。

生き物を殺す感触になんか慣れたくなかった。殺気を向けられる恐怖も、理不尽なことで人が死ぬ恐怖も知りたくなんてなかった。

……どうして俺はここに居るんだろう。

雨に打たれながら、心の底からそう思った。
無様に泣きわめいて、頭が痛くなるほど咽び泣いて、帰りたいと叫んだって何も変わりやしない。

相変わらずサシュの死体は傍で横たわっているし、強く地面を掻いた所為で爪に入り込んだ泥は痛いし、置いてきたあの三人だってこの雨に打たれていることだろう。

泣き喚いたって何かが変わるわけもない。
呆然と真っ白になった頭の中で、もう何も考えたくないと、サシュを眺めながらそう思った。



真っ白になった頭の中で、ただ一つの可能性が頭を擡げてきたのは必然だったのか、それともあるいは。




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あきゅろす。
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