*落書き置き場*
─U





───この空気は久しぶりだ。


朝のホームルームが始まる四十分前。

誰もいない教室は静かで、冬特有のひんやりと刺すような空気が漂う。


窓際の後ろから二番目。
自分の席に座って、息を吐いた。
やっぱり、吐いた息は白い。

暖房が点くまで、まだ二十分は我慢しなくてはいけない。

マフラーに顔を埋めて、冷えきった頬を暖めた。

チラリと視線を横に逸らして窓の桟を見てみれば、うっすらと白い雪が積もっていた。

それを確認してから、机の中に入れっぱなしの教科書とプリントを出す。
今日の二時限目にある日本史の宿題だ。

パラパラと教科書を捲りながら、問いの答えを書き込んでいく。



不意に思い浮かんだのは、日本史の教化担任の姿だった。


しっかりとした体格と黒の短髪に、明るい笑顔と優しい低音の声。

大きな手のひらが自分の頬を撫でた時のことを思い出して、慌ててシャープペンシルを握り直した。






始発のバスに乗らなくなったのは、二週間前からだ。

わざわざ早起きまでして始発のバスに乗る理由に気付いてしまったあの日から。

二週間は、始発から一本遅いバスに乗って登校していた。
学校に着くのは、ホームルームが始まる十分前。

始発のバスに乗っていた時と違って、学校に着いた瞬間に賑やかで、教室も暖房で温まっていた。

友達が笑顔で挨拶する。
だから笑顔を返して席に着く。

寒くないし、少しだけ眠る時間も増えたし、始発のバスに乗る意味は無い。



…………でも、窓の外を見ても、あの人の姿は無い。







シャープペンシルの芯が折れる音で我に返った。

しばらく呆っとシャープペンシルの先を見つめていたが、一度溜め息を吐いてカチカチと芯を出す。





雪が降ったのは、昨日の夜のことだ。

降るらしいとは聞いていたが、遂に降ってしまったかと思った。

雪が降れば、バスは混むだろう。

人混みは嫌いだ。
それに、バスが目的地に着くのも僅かに遅くなる。


───仕方無いんだ。そう言い訳しながら、二週間ぶりに早起きをした。



始発のバスは雪が降っていても空いていて、いつも通りの時間に学校に着いた。

でも、窓の外は見ない。

机の端に置いた携帯電話の時計が七時五十分を過ぎた事を示していても、決して窓の外を見ない様にした。





またシャープペンシルの芯が折れた事で、手を止めた。

それと同時に、スニーカーが床を擦る音が近付いてくることに気付く。

珍しい。
まだ八時前なのに誰か登校してきたのかと、首を捻って扉の方を見た。





────朝日が、黒の短髪を明るい色に照らしていた。


あの日と同じ様に片手を扉に預けて微笑む姿に、目を奪われていた。


「おはよう、高宮」


あの日と同じ、そんな言葉で近付いてくる。


何も言えずに見つめていれば、彼は──柳瀬は、前の席の椅子を引いて横向きに座った。

身長が高い柳瀬は椅子に座れば長い足を持て余すらしく、床に投げ出す様にしている。

ゆっくりと柳瀬の顔を見上げれば、いつもと変わらぬ笑顔がこちらを見つめていた。


あの日と同じ、胸の痛みが再発した。



「宿題、ちゃんと調べながらやってるんだ?偉いな」


微笑む柳瀬から視線をプリントに落とした。
構わずに、柳瀬は話を続ける。


「居るの見えたから、来たんだけど」


その言葉に、密かに息を飲んだ。

自分の席は窓際だ。

生徒指導室のある反対の棟からでも、自分の姿は見えるらしい。

だからと言って、何故柳瀬がここに来たのかが理解出来ず、返事もしないで黙り込んだ。

それでも柳瀬は口を開く。


「最近、学校来るの遅かったな」

「………始発、やめたから」

「なんで?」


問われて、また黙ってしまった。

柳瀬の声色はいつもと変わらずに優しくて明るい。

それなのに追及されている様な気がした。


「………始発じゃなくても間に合うって解ったから」

「ああ、そうなんだ。でも今日は始発?」

「今日は………雪が降ったから」


そっか、と軽い返事が来ることにホッとした。
もうこの話題に触れられたくなかった。

しばらく沈黙が続いてから、柳瀬が長い足を軽く組んだ。
それに対して顔を上げてみてから、後悔した。




やっぱり柳瀬はこちらを見つめていた。

それも、酷く真剣な眼差しで射る様に。

柳瀬から目をそらせずにいれば、その大きな手のひらが近付いてくる。


ソッとマフラーを下げて、露になった頬を柳瀬の頬が覆った。


思考が上手く回らない。
急激なまでに熱を持つ体は麻痺した様に動かなかった。


柳瀬は、こちらの頬を撫でてから微笑んだ。


「やっぱり冷えちゃってんじゃん」


柳瀬の手の温もりが離れていっても、高鳴ったままの鼓動の五月蝿さが邪魔して、言葉が出てこない。


視線の先で立ち上がった柳瀬が、スーツのポケットから何か小さな袋状の物を出すのが見えた。

それを頬に押し付けられると、柳瀬の手の温もりと似た暖かさが広がっていく。


「使いかけだけど、これやるよ」


そう言って、握らされた袋状の正体は簡易カイロ。

目を丸めたまま柳瀬を見つめれば、緩められた瞳が見つめ返してくる。


「宿題頑張ってるから、特別な」


ふわりと前髪を掻き上げる様に頭を撫でられれば、鼓動の五月蝿さは更に増した。




教室を出ていく足音は見送らなかった。

その代わり、手に握ったままのカイロを頬に当てる。

じんわりと染み入る様に温もりが伝わってくる。

それは、柳瀬に触れられた時と同じ温かさだった。







───今日は、柳瀬の手が温かかった。

それに、珈琲の香りがした。

寝癖はついてなかった。




そんな、小さな発見にすら胸が壊れてしまいそうになる。



やっぱり、始発に乗るのはやめた方がいいのかもしれない。






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あきゅろす。
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