*落書き置き場*
glow





───朝の教室が好きだ。




朝のホームルームまで四十分も前に登校して、教室の入口を開いた。


誰もいないシンと静まり返った教室は、自分の上履きが床を擦る音すら室内に響いてしまう。


まだ少し薄暗い教室に入り、窓際後ろから二番目の自分の席に鞄を放る。


近々、雪が降るらしい。
それ故か、最近は朝は肌が痛む程に冷え込む。


教室も外気と変わらぬ程に寒く、まだ暖房も点いていなかった。
吐く息が白いことに気付いて、首に巻いているマフラーは外さないことにする。


ブレザーの胸ポケットから出した携帯電話で時間を確認してみれば、七時五十分になる二分前。

窓際に寄り掛かって、自分の教室と中庭を挟んで並ぶ反対側の棟を首を捻って何気無く眺める。


視線の先には、生徒指導部の教員室があった。


もう一度携帯電話を見れば、七時五十分丁度。


首を捻って振り返ると同時に、教員室の扉が開いた。

そこから現れたグレーのスーツの男性をただ眺める。




日本史の教員で、隣のクラスの副担任である柳瀬(ヤナセ)だ。



朝日に照らされた短髪が黒から明るいオレンジに変わる。


弓道部の顧問だけあって、上半身はしっかりとしていた。


大胸筋も相当鍛えられているのだろう。
サイズのあったスラリとしたスーツ越しにも、柳瀬の身体の逞しさが解る。



─いつも、七時五十分になると、彼は朝練中の弓道場へと移動する。


バス通学で朝が早い自分は、それを何とはなしに眺める。


それが日課になっていた。



例えば、後ろ髪に寝癖が残っていて、ぴょんと跳ねているのを見つけたり。


大きな欠伸を溢して、肩の凝りを解す様に腕を回しているのを見たり。


そんな姿を眺めて、思わずくすりとするのが日課になっていた。



身長の高い柳瀬は歩幅も広く、生徒指導室から姿が見えなくなる階段まではほんの十数秒程度の時間しか無いけれど、その時間が楽しみになっている。




今日は、どこかゆっくりとした足取り。


そういえば弓道部は大会が近いらしい。


疲れてんのかな、と眺めていれば、不意に柳瀬がこちらを見た。



窓と中庭越しに目が合う。


ドキッとした。



今まで、一度も柳瀬がこちらを見たことが無かったから。



突然の事で狼狽したまま見つめていれば、柳瀬は足を止めて片手を上げた。


そのまま左右に揺れる手に、更に戸惑う。



柳瀬は笑顔でこちらに手を振っていた。


こんな時間に教室にいるのは自分くらいだ。



柳瀬が、自分に手を振っている。


自覚してから、咄嗟に窓際から離れて床に座り込んだ。



胸が痛い。

痛いくらいに、バクバクと音を立てて鳴り響いている。

こんなに慌てている意味がわからなかった。

ただ、手を振り返せば良いだけだったのに。

挙動不審過ぎる反応をしてしまった事に後悔した。

変に思われたに違いないし、見ていた事にも気付かれた。

胸の痛みを誤魔化す様に、ギュウっとブレザーの胸元を掴んだ。





「おはよう。高宮(タカミヤ)。」

不意に、誰も居ない教室に響いた明るい低音に弾かれた様に顔を上げた。


朝日に照らされたまま、扉に片手を着いて、柳瀬が微笑んでいる。


呆然と見上げていれば、柳瀬は軽く首を傾げた。


「どうした?具合でも悪いのか?」


心配そうに問われる声にハッとして、慌てて首を横に振る。


言葉が出てこないまま視線を落としていれば、その視界に柳瀬のスニーカーが入り込んだ。


驚いて顔を上げると同時に、額に冷たい感覚。



柳瀬の冷えた大きな手のひらが、自分の額へと当てられていた。


前髪を掻き分けられて、クリアになった視界には、至近距離で心配そうに眉を寄せている柳瀬が映っている。


胸が痛い。


さっきとは比にならない程に。


耳に届くのは自分の心臓の音だった。




「熱は無いな。ていうか、お前冷えちゃってんじゃん」


言いながら額から離れた手のひらが、頬をなぞる。


触れられた箇所から広がる熱さが、怖い。


「まだ暖房点かないもんな。高宮、いつも朝早いから寒いだろ」

「………いつも………?」


思わず反復した。

頬から離した手でマフラーを巻き直してくれた柳瀬が、目を細めて笑う。


「いつも始発?早起きご苦労さん」


満面の笑みで言った柳瀬は、そのままポンポンと頭を撫でてから立ち上がった。


ゆっくりとそれを見上げれば、柳瀬は腕を真上に上げて、大きく伸びをする。



「朝練行かなきゃ部長達に怒鳴られるなー。
あいつら、俺が教師だってこと忘れてるんじゃないかって位厳しいんだぞ」


苦笑して細められた瞳を、何も言わずに見つめた。

すると、身を屈めた柳瀬はもう一度頭をポンポンと撫でた。



「じゃあな。風邪引くなよ」


体を起こし、クルリと背を向けて。


グレーのスーツを翻して、柳瀬は教室を出て行く。


静かな廊下に、柳瀬のスニーカーが床を擦る音が響いた。








八時を告げるチャイムが鳴り響く。


それと同時に、ようやく暖房が点いたらしい。

ゴゥン、という緩やかな起動音を鳴らす暖房に背を預けたまま、膝を抱えた。




まだ教室は寒いはずなのに。


熱い。
身体が、顔が、流れる血液が。
触れられた額が、頬が。
撫でられた頭が、すべて。



いつも。
見ていたことに気付かれていた。

ずっと。
見ていたことに気付かれていた。


ただそれだけ。


それなのに、胸が痛い。



ドキドキと鳴り響いたままの心臓の音に戸惑う様に、ゆっくりと目を伏せた。


──気付いた。自分が、わざわざ始発のバスで登校する理由に。





明日の朝は、一本遅いバスに乗ろう。







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あきゅろす。
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