「篠原さん、聞いてください」
吐き出した声が、少しだけ掠れた。
焼かれているかのように、包帯を巻かれた腕が熱い。
痛みをとっくに通り過ぎたそれをどうにか堪えようと、握ったままの手を強く握りなおした。食い込む爪の痛みで相殺しようとすれど、腕の熱さは増していくばかりだった。
「俺は、”あの人”が嫌いです」
言い切る言葉に、篠原の視線が上がる。じっと見つめてくる紺色の瞳を見つめ返して、痛みに顰めたままだった眉間に一層力を入れた。
ここで退けば、一生後悔するのが解っていたからだ。
「俺が防衛軍に入ったのは、”あの人”から逃げたかったからです」
数多の権力を持つ国会議員である母の手は、相楽がどこへ逃げてもすぐにその体を拘束してしまう。
どれ程その手から逃れようとしても、阻まれるばかりだった。
「防衛軍は国家の保有する軍ではあるけれど、逆に、『一議員』が簡単に手を伸ばせる場所では無いからだと思ったからです」
どこへ逃げても…、母親を欺いて遠地の高校へ進学しても、すぐに見つかった。
引き摺り戻されそうになった自分を守ってくれたのは、離婚した父親だった。父がどれ程に自分を守る為に必死になっていたか、相楽は重々承知している。
ただ無償の愛で溢れた父の手に守られながらも、ずっと考えていた。
『どこへ行けば、あの手が届かない場所に辿り着ける』?
「でも、浅い考えだった。”あの人”は、どうしても俺を自分の足元に置いておきたいんです」
防衛軍の訓練校に入校してからは、母親からの圧力を感じなかった。
だから、『逃げ切れた』と勘違いしてしまったのだ。
もう、あの手に触れられることも無いのだと。
相楽がファースト・フォースに入隊すると同時に躍起になった母親は、どんな汚い手を使ってでも相楽へと這い寄って来ようとしていた。
官僚やマスコミすら掌握した彼女にとって、防衛軍を揺さぶることなど造作も無いことだったのだと、そこでようやく自身の浅はかさをまざまざと思い知らされてしまった。
上層部への圧力を掛け始めたわ、とやけに嬉しそうに電話を掛けてくる彼女に、諦めさえ覚えていた。
彼女が生きている限り、自分には、逃げ場など無いんだと。
「…嬉しかったんです」
どれ程相楽がその手を恐れても、もう数日もすれば自分はここから追い出される。
そう思っていたのに、彼女の手は、いつまで経っても自分に触れやしなかった。
どうして、と原因を突き止めるために顔を上げた相楽の前には、大きな背中があって。
「あなたに守ってもらえることが、嬉しかった」
相楽の解任を急かす上層部達に歯向かって防衛軍に繋ぎとめていたのは、篠原だった。
唯一相楽を守ってくれていた父と同様に、母と相楽との間に立ってくれたのは、この上司だけだった。
「でも、同時に申し訳なかった」
母に歯向かうことが、どれだけ大きな代償を得るのか、知っている。
大学の教授だった父は、その職を追われることとなった。
前向きで発想力豊かな父だったからこそ他大学に引き抜かれることが出来たが、父が大学を辞める原因となったのは、母に違いないのだ。
自分を庇うことで、多くの人に被害が及ぶ。
それを知っていたから、相楽は誰にも母のことを話さなかった。話せば、巻き込んでしまう。
自然と、他人との距離を開く。
逃げるように、己から他を避ける。
一人でいれば、誰も、自分も、傷つかない。
気付けば、自分はたった一人で立っていた。
父を頼ることはやめた。大事な人だからこそ、離れなければと。
帰る場所はない。『家』はすでに、己の帰る場所ではなかった。
それでも気丈に振舞った。
母に対する恐れなどない。
むしろ、自分の大切な人……父や、友人たちが彼女の猛威に晒されることだけがただ、怖かった。
孤独というものが、己の心を守る手段だった。
前も後ろも見えない、真っ暗な独りぼっちの世界に慣れ始めていた頃。
その、温かさに触れてしまった。