「先日の健康診断の件なんだが」
廊下ですれ違った風早がそう呟いたことで、篠原は足を止めた。
巡察から戻った矢先でピリピリとした神経質な空気を纏ったままの篠原に対し、何も臆さずに話し掛けてくるのは養成所からの付き合いである風早くらいだ。
他の隊員達は、目を合わさぬ様にしてそそくさと離れていく。
それほどに気が立っている様に見えるらしい。
眉間に深い皺が寄ったままの篠原にも構わず、風早は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま切れ長の瞳を細めて篠原を眺めている。
仏頂面の篠原も見慣れている友人だからこその対応だ。
「要注意項目だらけなのが一人いたんだが」
「………いい、言わなくても誰なのかは見当がつく」
風早の言葉と共に脳裏を過った姿に大きな溜め息を吐けば、風早は僅かに笑いを漏らして背後の壁に寄り掛かった。
「他の隊員に比べて痩せすぎだってのは体格的に仕方無いかとは思ってたんだけど。
食生活の改善が必要だな、相楽は」
予想していたとおり、相楽、という名前が出たことに殊更大きな溜め息が出る。
つい先程も勝手に単独行動をして視界から消え、ようやく見つけたかと思えば反UC派の青年達と殴り合っていた、という問題児だ。
勝手に動き回るな!と怒鳴っても、「反UC派捕まえたんだから、別にいいじゃないですか!」と食い下がる。
非常に憎たらしい部下だ。
相楽の身長が低いこと、体重が軽いこと、鍛えても鍛えても身体に逞しさが備わらないことを篠原も問題視してはいたが、医師である風早の目に留まるほど深刻なことだったらしい。
「なんだ、カルシウムか。たんぱく質か。肉か。何を食わせればいい」
片手でネクタイを緩めて呆れ気味に問えば、風早は楽しげに目許を緩め、違う、と呟いた。
「食わせるんじゃない、食わせない様にして欲しい」
「はあ?これ以上貧弱にする気か?あいつを」
意味が解らない、と眉を潜めれば、風早の軽い笑いが耳についた。
風早はポケットから出した飴の小袋をひらりと振る。
白い小袋のそれは、相楽が特に好んで舐めるミルク味の飴だ。
「甘いもんだよ。相楽は甘い物食いすぎだ」
「………ああ」
すっかり失念していた。
隊内で一番の小柄である相楽は、それと同時に隊内一の少食でもある。
とにかく、食べない。
誰かに言われるまで食事をしない。
あまりに食べないので、実はアンドロイドなのではないか、と関と桜井が疑っていたこともあった。
そんな少食の相楽が主食にしているのが、砂糖ごてごての甘ったるい菓子の数々だった。
朝・昼・晩を全て菓子で過ごしているのを見たときは目眩と吐き気がした。
それでも食料を口にしているだけいいか、と放置していたのだが。
「血糖値が半端じゃない。
まだ未成年なのに糖尿病予備軍だぞ」
「……糖尿病……」
ガクン、と肩が落ちた。
あまりに呆れて力が抜けてしまう。
「解った。明日から甘い物は食わせない」
「それが問題なんだ、篠原」
「問題?」
小袋の中から飴玉を出して頬張った風早は、それを舌で転がしながら頷く。
「相楽の主食ってお菓子だろ?
それを奪ったら、あの子、何食うんだろうな?」
「…………」
「あからさまに『めんどくせぇ』って顔するのやめろよ」
遂にケタケタと笑い出した風早に舌打ちすれば、風早は笑いを噛み殺しながら篠原の肩を叩いた。
「確実に食事の量が減るだろうから、三食きちんと食わせろよ?」
「俺はあいつの母親か…」
「飼い主だろ?」
どっちも嫌だ。内心で呟いた言葉の代わりに、今日一番の大きな溜め息を吐いた。
「あいつが来てから仕事が増えた気がする」
「それほど育て甲斐があるって事だ。頑張れ、おかん」
おかん、と反復して片手で眉間を押さえれば、風早は他人事の様に楽しそうに笑ったまま脇をすり抜けていった。
風早が去っていく気配を感じながら片手をこめかみに移動させ、何度目かの溜め息を吐く。
つまり、なんだ。
明日から朝昼晩しっかりと相楽を監視し、規則正しく飯を食わせろ、と?
「めんどくせぇ…」
「篠原さん、何してるんですか?」
不意に聞こえた声に閉じていた瞳を開けば、篠原の仕事を増やしている張本人の相楽が不思議そうに目を丸めて覗き込んでいた。
篠原よりも先にオフィスに戻っていた相楽は既に装備を外し、自販機で調達したであろうミルクセーキを大事そうに抱えている。
普段は仏頂面のくせに、今は幼いまでにきょとんとした表情を向けていた。
―それがまた、篠原の勘に触れる。
おもむろにその柔らかな頬を掴めば、丸く広がっていた瞳が一気に吊り上がった。
構わずに力を入れて引き伸ばしてやると、相楽がきゃんきゃんと高く悲鳴を上げる。
「いたたたたたた!なっ!なにひゅるんれすか!いひなり!!」
「うるせぇ。その砂糖でべたべたな脳味噌引き伸ばしてやろうか、ああ゛?」
「いっ!いだいっ!つぶれる!」
「何が糖尿病予備軍だ。あー、めんどくせぇ」
「いだいぃ」
相楽の悲鳴に振り返った風早は暫く頬を緩めて二人の姿を眺めていたが、やれやれと肩を竦めてから医療班のオフィスへと戻っていく。
それから数日、篠原と相楽の激しい攻防戦が毎日の様に繰り広げられることになるのだが、それを容易に想像出来ている風早は素知らぬ顔でパタンとオフィスの扉を閉じた。