「篠原さん! “Trick or Treat”!」
オフィスに飛び込んで来た相楽がそう叫ぶ。その叫び声を浴びせられた篠原は、思いきり眉根を寄せた。
報告書の綴りを捲っていた手を止めて視線を上げると、その細い両腕から溢れそうなほどの菓子を抱えた相楽が、ぴしりと踵を合わせて目の前に直立した。
篠原の怪訝な表情にも臆することなく真っ直ぐに見つめてくる相楽へと、呆れた溜め息を吐き出す。
「何のつもりだ」
「何って、ハロウィンですよ。篠原さん、知らないんですか?」
「……お前はカレンダーの見方も知らないのか」
冷ややかに返して、デスクの上に置いてある卓上型のカレンダーを顎で指した。
もう十一月の中旬を過ぎた頃だ。とっくにハロウィンは終わっている。
それなのに、相楽は悪びれもせずに片手を突き出して小首を傾げた。
「知ってますよ。でも、ハロウィンの日は朝から夜までずっと任務だったじゃないですか。お菓子貰ってないことを思い出したので」
なにかおかしいですか?とでも付け足してきそうな、当たり前だと言いたげな表情の相楽に、口元が引き攣る。
この馬鹿は本当にどうしようもない。とにかく考え方が尋常ではない。
思考回路を制御するネジが何本が抜けてしまっているのではないのだろうか、と不安になることもある。
果たしてこの突拍子のない思いつきに付き合ってやるべきか、それとも「お前、馬鹿だな」と罵ってさっさと座らせるべきか、悩むところだ。
前者は、調子に乗って今後も菓子を強請られる懸念がある。後者は、ヘソを曲げる確率が高い。
対応に悩む篠原は、ふと、相楽が抱える菓子へと目を向ける。大量だ。「まさか」と、今にも痛んできそうな頭を指先で押さえた。
「他の奴らにも言ってきたのか……?」
「言ってきましたよ?」
ああ、馬鹿だ。
くらくらと目眩がする。
十一月も半ばにして今さら「Trick or Treat!」などと基地内の至るところで騒いできたらしい相楽が筆頭の馬鹿だが、それに答えてほいほい菓子を渡した奴らも馬鹿だ。
誰も突っ込まなかったのか。
放置したのか。
この季節外れの行脚を。
「それは……風早か……」
一番大きなカステラの箱を指差して言えば、相楽は頷いた。
医療班の風早のデスクの上にそのカステラの箱が置かれていたのは約二週間前の話。
それからはどこかに片付けられていたのか、それとも新しい物を買い与えられたのかは知らないが、一人目の馬鹿は確定した。
「ハロウィンの時には用意してくれていたそうなんですけど、渡しそびれたって言ってました。このクッキーは吉村さんで、チョコは高山さん、飴は桜井さんで……、関はメロンパン」
行脚の戦利品を机に一つずつ並べながら説明する相楽の声に、頭が痛くなる。
恐らく、相楽がいつ回収に来ても良いように用意されていた品々なのだろう。……関に関しては、近くにあった物を慌てて渡した体が否めないが。
戦利品は、両腕に抱えていた分だけではなかったらしい。ポケットやベストの内側、ぱたぱたと手を動かずたびにあちこちから溢れてくる菓子に辟易しながら眺めていると、相楽が改めて片手を差し出してきた。
「篠原さん。Trick or Treat」
「無ぇよ」
「えー」
不満げに眉を下げる相楽を、片手を痛むこめかみに当てたまま見つめていれば、「何ですか」と首を真横に傾げる。
そう言えば、自室の冷蔵庫に貰い物の生チョコが入っていた気がする。
自分は甘い物を食べないので、すっかり存在を忘れていた。
確かあれは、風早から渡されたものだ。「必要だろう」と意味のわからない言葉とともに押し付けれたそれを、冷蔵に放り込んでいたが、そういえばあれは十月三十日のことだったか。
……今さら「必要だろう」の意味に気付いた。
『相楽が明日、ハロウィンの菓子を欲しがりに来るから、必要だろう』という意味だったのか。
しかし、ものの見事に忘れていた。
このまま放置しても悪くなるだけだな、と思い至り、それから僅かに考えた。
風早の思惑通り、季節はずれのハロウィンに付き合ってやるべきか。
相楽は、篠原からは菓子をもらえないものだと判断したのか、ふいと背を向け、奪い取った菓子を自分のデスクの中に詰め込む作業に没頭している。
その様子を黙って見ていれば、視線に気付いた相楽が顔を上げた。
「……ちゃんと食べ過ぎないようにしますよ」
篠原の小言の先手を打って口を尖らせた相楽から視線を一度外し、思いついた意地の悪い考えを腹に抱えて、ぎっと椅子を引く。
机に片肘を着いて、きょとんとした目で見つめてくる相楽を見上げてから、口許を緩めた。
「あるぞ、菓子」
「なんだ。だったらくださいよ、早く」
遠慮もなく再度差し出してきた相楽の手の平の上に、上着の内ポケットから出したカードキーを乗せる。
目を丸めてそれを見下ろした相楽が、説明を求めるようにちらりと視線を送ってきたことに気付き、口端を意地悪く上げて笑ってみせた。
「俺の部屋の冷蔵庫にある。行ってくれば?」
「……勝手には入れません」
「カードキー渡してんだから、勝手じゃないだろ」
「でも」
戸惑うように視線をさ迷わせる相楽に、殊更口許を悪戯気に引き上げてやる。
「男の部屋に入れないって、年頃の女子かよ」
嘲笑混じりに言えば、僅かに朱に染まった顔を上げて、きっと睨んでくる。
そのまま何も言わずに睨んでいた相楽が、意を決したようにごくんと唾を飲み込み、口を開いた。
「行きます! 俺、女子じゃないですから!」
「冷蔵庫の上から三段目な」
「三段目! 了解!」
カードキーを握った手とは反対の手でぴしりと見本のような潔い敬礼をした相楽は、ばたばたとオフィスを飛び出ていく。
それを見送った篠原は、堪えきれずにデスクに突っ伏してケタケタと笑いを吐き出した。
オフィスを出ていく寸前に見えた相楽の耳は赤く、やっぱりあいつ女子なんじゃないのか、と一層笑いが込み上げてくる。
我ながら意地の悪いことをしたのは自覚がある。
他人のパーソナルスペースに入りたがらない相楽に自室へのお遣いをさせるのは、意地悪が過ぎている。
了解だの、敬礼だの、普段は使わない仕草が出たのは、相当に狼狽していたからなのだろう。
しかし、これに懲りて「気を許した相手にはべたべたと(菓子を)強請る」悪い癖も多少は治ればいいのだが。
一頻り笑いを貪ってみると、一度は引いた頭痛が再度襲ってきた。
鈍痛に眉をしかめながら、一番馬鹿なのは自分かもしれない、と苦笑を洩らす。
ゆっくりと立ち上がって、オフィスを出た。
自室の薬箱に入れている頭痛薬を取りに行くついでに、相楽の様子を見ておこうか。
『今まさに主の居ない部屋に入り込んだであろう相楽が、どれほど挙動が不審になっているのか、興味が沸いた』というのが本音なのだが。
悪戯をしすぎた代わりに、カフェオレでも作ってやるか。などと言い訳めいた考えを胸に、篠原は相楽が居るはずの自室へと足を向けた。