「篠原君、目を覚ましたそうです」
受話器を置いて一呼吸置いた吉村監理官が、そう告げる。その声が心底安堵した色を含んでいて、肩を強張らせてじっとしていた木立は、思わず涙が零れそうになってしまった。
ここ数日間、オフィスの電話が鳴るたびに身体中が緊張して、指先すら動かせぬほどに固まった。
最初は、医療班からだった。
篠原隊長の治療が終わって数時間後のこと。
麻酔が切れても、彼が目を覚まさないという報告だった。いつも飄々としている風早医師の声が、そのときは、別人のように緊迫していた。
受話器を掴んでいた手が震えて、デスクの上に取り落とした。がしゃんという音が響いても、声を忘れたようになにも言えなかった。
なにも言わずに受話器を拾い上げて置きなおした関が「木立さん、大丈夫ですから」と低く低く耳元で囁いたので、ただ何度も頷くことしかできなかった。
二度目は、上層部からだった。
どうにかして態勢を立て直すべく残されたメンバーが総出動し、睡眠を削ってでも「後始末」に着手していたときだった。
ほとんど手一杯の状態だったにもかかわらず、上層部は事も無げに緊急出動を命じた。
基地近くでのUC肯定派と反UC派の小競り合いの鎮静を任された任務だったが、いつもよりも鎮圧までに時間が掛かってしまった。
疲弊しきってオフィスに戻ると、関と高山副隊長がいない。別の緊急出動の要請が掛かったのだという。二人が戻ってきたのは、日付が変わってからだった。
じわり、じわりと、ファースト・フォースが崩れていくような気がした。
……ちがう。
「崩されている」ようだった。
三度目は、管理部からだった。
木立を含め、後方支援メンバーが「あの夜」や「都築」について、調査と解析を続けていた頃。
管理部も並行して行っていた調査の途中報告として、『ファースト・フォースが意図的にUC館へ誘導され、そして襲撃された』ことが確定したようだった。
「被害は最小限に収まりましたね」という管理部長の他人事のような声に、普段は温厚な吉村監理官が、叩きつけるように受話器を置いた。
頭を抱えるようにして椅子に座り込んだ吉村監理官の深い深い溜め息が、静まり返ったオフィスに漂って消えた。
木立も、許されるならば、叫びたい気持ちだった。
四度目は、再度、上層部からだった。
また緊急出動かと一瞬表情を強張らせた木立に代わって、隣をすり抜けた高山副隊長が受話器を取った。
緊急出動の要請ではなかったが、高山副隊長と吉村監理官が上層部の会議室へと召喚されていった。
不安な顔を隠し切れぬままに見送った木立は、十分も経たずに戻ってきた二人に告げられた言葉に、わが耳を疑った。
「当面の間、ファースト・フォースの緊急出動およびUC館等の警備の任務を免除する」
数時間前まで当たり前のように緊急出動の要請をしてきていた上層部からの手の平を返すような任務免除の通告に、オフィスが不自然に静まり返った。
それからは、オフィスの電話が静かになった。
緊急出動の要請は別の部隊が担い、医療班からの電話もなく、時折、管理部から警護システムの復旧状況について聞かれるくらいだ。
ただただ篠原隊長の回復を祈り続けていたなかで鳴った医療班からの電話は、ぴりぴりとしたオフィスの空気を弛緩させるには充分すぎるもの。
潤んだ目をごしごしと両手の甲で擦った木立に、吉村監理官は笑顔を向けた。
「木立君。もう少し時間を置いてから、完成している調査書をすべて篠原君に届けてください。彼だったらきっと、すぐに仕事に戻りたがるはずですからね」
「はい!」
木立の僅かに上擦った返事に呼応するように、オフィス内が明るくなったような気がした。数日ぶりにオフィス内に笑みが零れ、深く息を吸うことができる。
木立は、ぱっと顔を上げて口を開きかけ、そして閉じた。
一番最初に「よかった」と言い合うはずだった、華奢な後輩の姿はない。不眠不休でオフィスと病室を行き来していた彼は、きっと今、目を覚ました篠原隊長の隣にいる。
彼がどんな表情をしているのか、想像するだけで頬が緩んだ。
きっと、誰よりも、安堵しているはずだ。
「木立さん。相楽、腹減ってないかな」
唐突な問いは、隣に立っていた関からだ。
関は、笑みで溢れるオフィスのなかでひとり、神妙な顔をしていた。
「寝てないし、食ってないし、大丈夫かな。もう、食えるかな」
そう言って、相楽のデスクの引き出しを片手で開けた関は、そこにあった封の開いたキャラメルの箱を持ち上げる。
木立の、二人の後輩たちは、それぞれマイペースで、それでいて心優しい。
篠原隊長に付き添い続けた後輩を心底心配している関ににっこりと笑って、キャラメルの箱を取り上げれば、「だめ?」と言いたげな大型犬の瞳が見つめてくる。
「お菓子よりもまずは主食を探しに行こうよ、関。一緒に売店に行ってこよう?」
木立が言えば、ぱっと顔を輝かせた関はすぐに振り返った。
背後のロッカーから財布を取り出す関を見ながら、キャラメルの箱は相楽の引き出しにそっと戻す。
「相楽の食糧、調達してきます!」
関が満面の笑みで言えば、行って来い、という声がオフィスのあちらこちらから返って来た。
皆、口には出さなかったが、目を覚まさぬ篠原と同じくらい、その傍らで真っ蒼な顔をして佇む相楽のことを心配していたんだろう。
木立が見ていた相楽は、歳のわりに落ち着いていて、肝が据わっていて、どこかミステリアスな印象のある、言うなれば「静」の青年だった。
けれどあの夜、意識の無い篠原隊長に縋りついた相楽は、まるで子どもだった。いや、子どもよりももっと複雑ななにかだった。
相楽は「何者なのか」。
ファースト・フォース内で、誰もが薄々思い始めていたことだ。あの夜を境に、その疑問は一層濃くなった。
相楽は、一般的な生き方をしてきていないんじゃないだろうか?
なにかのきっかけで箍が外れ、怯え、震え、涙を流し、何度も懺悔の言葉を呟く相楽のなかに、触れるのを躊躇うような質量を持つ過去があるのは明らかだった。
「相楽、落ち着いたかな」
関の声ではっとした。
顔を上げれば、基地内にある売店の入口でくるりと振り返って木立を見ている関がいた。いつも明るい関には珍しく、しゅんと目尻が下がっている。
木立の後輩たちは、どちらも優しい。
特にこの大型犬のような爛漫さを持つ後輩は、いつもは邪険にされるほど賑やかなのに、誰かが落ち込んでいれば、自分のことのように一緒に落ち込んで、隣に寄り添おうとする。
この数日間、相楽に寄り添うことができなかった分、関はずっと案じ続けていたに違いない。
「きっと、大丈夫。相楽の好きなパンってなにかな? やっぱり甘いやつかな?」
優しい後輩を安心させるように笑顔で返せば、関はこくりと頷いてから、白い歯を見せて笑った。
「ついでに俺たちの夕飯も買いましょ。木立さんのはこれ」
木立が持つ隙も与えずにひょいと籠を手にした関は、まっすぐに惣菜パンの陳列棚へと突き進む。
木立さんはこれ、と言って籠に放ったのは、ダブルカツチーズサンド、と書かれた重そうなサンドイッチだ。
うわ、と声が出そうになるのを堪えていれば、その隣にあるカツサンド、チーズサンド、ツナサンドをそれぞれひとつずつ籠に入れた関は、眉根を寄せる木立に向かって不思議そうに首を傾げた。
「木立さん、朝からなにも食ってないでしょ。腹減ってないんですか? 俺、朝も昼もちゃんと食ったのに減ってるんだけど」
「……驚いた。俺のことも見てたんだ……」
思わずぽつりと呟いた。
無意識に発してしまったその言葉に木立自身が驚いていたのだが、きょとんと目を丸めた関は、右手に提げた籠の中に焼きそばパンを入れてから、殊更不思議そうな表情をする。
「木立さんって、天然ですよね」
……それを、関に言われるとは。
一瞬唖然とした木立は、次の瞬間、くすくすと笑った。そんな木立に、やはり関は不思議そうにしながら、次々にパンを籠へと放り込んでいく。
「俺、ここ数日、変だったかも」
「うん」
木立が独白すれば、関はあっさりと頷く。
重くなってきた籠の中を一度ざっと確認した関は満足したように頷いてから、僅かに細めた瞳をこちらに向けてきた。
なんだかいつも楽しそうな顔をしている大型犬も、時折ふっと真剣な眼でなにかを訴えかけてくる。
普段は明朗な大型犬こと関が、不意に鋭い目をしたときは、彼が「戦闘集団」の一員である所以をまざまざと見せつけられるものだ。
野生的な目だ。実証的に理解するよりも感覚的に察することに長けている関は、ふとした瞬間に、野生の動物かと思うほど鋭く物事を見通していることがある。
「怖いのは、木立さんだけじゃないですよ。隊長がああなって、それが都築のせいだって、上層部は相変わらず無責任で……そういうのって、嫌でも重なるし。去年のあれと」
関は、静かに吐き出す。
去年のあれ。
関が言っているのは、一年前の十一月二十五日。ファースト・フォースが半壊し、多くの傷を負った、都築の一度目の襲撃のことだ。
「でも大丈夫だよ、木立さん」
木立よりも背の高い関が、くっと腰を曲げて覗き込んでくる。目が合えば、いつもの大型犬の笑顔だ。
「去年と違ってさ、皆、無事だったじゃん。相楽が守ったんだよ。だからさ、早く相楽のこと褒めてやろうよ」
ね? と同意を求めるように歯を見せて笑った関に、今度は木立がきょとんと目を丸める番だ。
関は、その野生的な感覚でいろんなことに気付いて、けれどなにも言わずに相楽を案じ続けていたんだろう。
尋常ではないほどに乱れた相楽を見て。
さらには、襲撃や篠原隊長の重傷で動揺が満ちたオフィスを見て。
そして、オフィスに戻らぬ相楽と、唐突に下されたファースト・フォースの減任の関係に薄々気付き、隊員たちが相楽の正体を疑った空気を感じ取って。
それでもなお、関は真っ直ぐな目をして言う。
「相楽が、俺たちを守ってくれたんだよ。だから、去年とは違う。俺たちも隊長も、壊れてなんかない」
木立は、うん、と力強く頷いた。
満足げに笑って、関はレジをちらりと見る。それと同時に、関の腹の虫が騒いだ。一刻も早く夕飯を食べなければ、関の元気はあっという間に萎んでしまうに違いない。
木立は、関が選んだこってりとした惣菜パンしか入っていない籠に、クリームパンとメロンパンをひとつずつ、二百ミリリットルの牛乳パックを一本追加した。
それから、甘いものが大好きな可愛い後輩が喜びそうな、ふるふると揺れる黄色いプリンのカップをそっと入れる。気付いた関は、にっこりと笑った。
そんな関に微笑を返して、木立は口を開く。
「俺はね、臆病だ」
「えー? そうですか?」
「そうなんだよ。だから、相楽は一体何者なんだろうって、ここ数日気になって気になって仕方なかった」
レジへ向かう関の背中に続ける。
「でもね、相楽が何者だって、それを知ったところで、変わらない」
そうだよね? と問い掛ければ、関は背中を向けたまま頷いた。
「俺たちが今できるのは、隊長が命懸けで守ったものと、相楽が一生懸命守ったものを、絶対に奪われないようにすることだけです」
関の声は、真剣だった。後ろ姿ではその表情を窺えないが、今、警察犬のように真摯な目をしているに違いない。
木立の二人の後輩は、木立が憧れて羨ましくなってしまうほどに、立派だ。
「関」
支払いを終えた関が振り返る。
木立は、満面の笑みを見せた。
「相楽、喜ぶかな?」
関の手に提げられたふっくらと膨らんだレジ袋を指差せば、大きな後輩は至極嬉しそうに笑った。
さぁ。
俺の、もうひとりの後輩を目一杯に、褒めに行こう。