2012/9/12 日記内で公開 Story-Teller番外SS
【関と相楽の小話】
これは、新手の若手いびりなのだろうか。
くらりとたゆたう蜃気楼のような視界を、完全に崩れ落ちる前にどうにか留めて、関大輔は顎をつぅと伝ったぬるい汗を拳で拭う。
その動作を何度繰り返したところで、滝のように流れ落ちる汗の不快感を拭い去ることなど、微塵も出来ないことはわかっていた。それでも無意識に頬を擦っては、その度に、じっとりとした己の肌に辟易する。
容赦無く煌々と頭上で輝く太陽は、このまま関を焼き尽くす気なのではないかというほどに熱量を増していく。はぁ、と吐き出した息が鈍い重さを持っていた。
「まじで、これ……死ぬ……」
熱波は、喉にまでダメージを与えている。掠れはじめた声で呟くと、隣に並ぶ相楽天は、無言で頷いたのち、諦めたように力なく目を伏せた。
『本日の予想最高気温は、三十六度。
厳しい暑さが続きます。
水分補給を忘れず、屋外での長時間の作業は控えましょう。』
朝の天気予報は、連日の猛暑ですっかり聞き慣れたフレーズを、飽きもせずに伝える。
「今日も暑いな」と携帯端末のテレビモードでそれを聞いていた関がぼやけば、背後で資料の整頓をしていた相楽は「そうだね」と簡潔に返す。
まだ始業時間には一時間近く早い。
にも関わらず関と相楽がすでに出勤しているのは、ファースト・フォースのオフィスが、他のどの部屋よりも涼しいということを知っているからだ。
毎日三十五度を超える酷暑が続くなか、暑さと激務の二重奏でファースト・フォースの面々は誇張ではなく、死にかけていた。
そんな隊員たちを気遣った監理官の吉村が「特別ですよ。ほかの隊には内緒です」と、設定温度を他よりも随分下げてくれたときには、隊員たちには吉村が仏か天の遣いに見えていたに違いない。
勤務中は閉めっ放しにされている蒸し風呂のような自室よりも、常に冷やされているこのオフィスの方が、何倍も居心地がいい。早めに出勤するのはそのためだった。
暑さで手つかずのまま溜まっていたデスクワークも、早朝出勤のおかげか、随分効率よく進んでいる。それを狙ったのか、否か、冷房管理を徹底している吉村は満足げだった。
「あれ、今日の予定が書いてない」
オフィスの壁に掛けてあるホワイトボードを眺めた関が言えば、作業の手を止めた相楽が顔を上げる。
ホワイトボードには、日勤と夜勤のメンバー、当日の巡回ルートなどの予定が書かれている。前日のうちに篠原か高山、または吉村のいずれかが必ず書き込んでいるはずのそれは、今日はどうしてか、真っ白なままだった。
「書き忘れたのかな」
相楽がそう私見を述べて、ファイルを閉じる。
今日の日勤は、関と相楽、そして吉村と木立の四人だ。普段どおりの業務内容ならば、そのうちの二人が外の巡回。残りの二人がオフィスで待機になる。
巡回には行きたくねぇなぁ、と関が本音を溢すと、相楽はそうだね、と先程と同じ相槌を返してくる。いつもながら相楽の反応は淡白だが、暑さのせいで磨きが掛かっているその適当な相槌に、関は密かに口を尖らせた。
相楽が充分に構ってくれないのは、関にとってはまったく面白くない。
かといって、この暑さのなか、「相楽ぁ相楽ぁ」としつこく声を掛ければ、向こう一週間口を利いてくれなくなる可能性は、無きにしも非ず。
どうにか鬱陶しがられずに会話を続けられないものかと、ぼんやりとホワイトボードを眺めてみれば、眠気が襲う。欠伸を噛み殺して、氷の溶けた薄いアイスコーヒーを一口。
そうこうしているうちに、そっと控えめに開かれたオフィスの扉。反射的にそちらを見れば、扉をほんの僅か開いて、吉村がちらりと片目を覗かせた。
吉村の不可解な行動に首を傾げて相楽を見れば、相楽は不思議そうに首を傾げながらも、「おはようございます」と礼儀正しく頭を下げた。特に気にしてはいないが、相楽が適当にあしらうのは関だけなのだ。ほかの隊員たちには、驚くほど礼儀正しい。
「……吉村さん?」
そんな相楽の挨拶に、吉村は片方だけ見せていた目をそっと細める。
吉村の反応に首を捻っていた関だが、視界の端に見えたカレンダーの日付に、ハッと息を飲んだ。咄嗟に相楽を見れば、相楽も丁度同じタイミングで察したらしい。
まずい、と言いたげに一気に強張った相楽の顔から視線を吉村へと戻せば、吉村はようやくオフィスに一歩だけ足を踏み入れ、そして優しい声で言った。
「もう気付いたみたいだけど、今日は外警番です。行ってらっしゃい」
それは、死の宣告だった。
ひんやりと冷えたオフィスから放り出された先は、UC軍基地と併設されたUC館……簡単に言えば、UCの展示館だ。
正面入口に相楽と並んで立った関は、じりじりと照り付ける太陽に悪態を吐いた。
「なんでこんな日に外警番なんだよ……」
外警番。
それは、普段はUC軍の別部隊である『守衛班』が守っているこのUC館を、精鋭部隊であるファースト・フォースが『特別に』その任を一日だけ代わる日のことだ。
『守衛班』の所属人数は少なく、そのなかで毎日UC館の守備を担っているために、シフトが過酷だというのはよくよく耳に入ってくる。不審人物をUC館に立ち入らせる前に引き止める屈強さと、一日中入口前で仁王立ちを続ける精神力を持ち合わせていなければならない上に、夜勤がやけに多い。『守衛班』に配属されて喜ぶものは稀少だ。
とはいえ、激務度でいうならば、軍内でトップをキープしているファースト・フォースには敵わないが。
しかし、あまりにもその『守衛班』からの辞任者が続出したせいで、月に一度だけ、ファースト・フォースがその任を請け負う日が認定されてしまったのだ。
「上層部はさ、俺らを何だと思ってんのよ……」
「面倒事が起きたらファースト・フォースに言え。が、専ら上層部の口癖らしいよ。篠原さんが言ってた」
「まじか……何でも屋かよ」
「篠原さんも相当突っ撥ねたらしいけど、守衛班の班長に泣きつかれちゃったみたいで。あのひと、意外とそういうところ人情深いよね」
開館から、そろそろ二時間が経つ。
既に視界がクラクラとしている関は、横目で相楽を見た。少し頬が紅くなっているだけで、大した変化がない相楽に、思わず苦笑する。
「相楽って、暑いって感覚あるの?」
「あるよ。今、暑い」
「そうは見えねぇんだけど」
「関が暑さに弱すぎるんだよ。守衛班は毎日これに耐えてるんだから」
至極真っ当に返してくる相楽の、僅かに饒舌なところに眉を下げた。
普段なら早々に話を切り上げて無視をしてもいいところなのだが、律儀に返してくるあたり、彼も少しは暑さには耐えかねているのかもしれない。関が「なんか話してないと意識飛ぶかも」と呟いた時には、こくりと真剣な顔で頷いていたし。
「なんかさ……俺と相楽って、外警番に当たる確立高くねぇ?」
「それは、俺も思ってた。先月も当たったし」
「問答無用で年下の俺と相楽が外警に回されるもんなぁ……これ、絶対仕組まれてるって」
くそぅ、と呟き、汗が目に入る前に瞼の辺りで拭った。
じりじりじりじり。アスファルトが焼けるような音が鳴っていそうな、この暑さだ。まるで鉄板の上で転がされるかのように、芯から熱されていく感覚に頭がぼんやりとする。
「守衛班のこと、尊敬する……」
ぼんやりとした目で虚空を見つめて言えば、相楽は苦笑した。
ぽつり、ぽつりと相楽と言葉を交わしながら、冷気を求めて館内へと飛び込んでいく来館者へと意識を巡らせる。普段は守衛班がやっている業務だ。来館者に不審な点がないか、こうして館の入口に立って見張る。
不自然に大きな荷物を持っていないか、挙動はおかしくないか、こちらと目を合わせないようにしていないか、等々、なにか一つでも引っ掛かったならば、声を掛けて引き止めるのが役目だ。館内に入ってから暴れられると、来館者を巻き込む恐れがある。その前に食い止めるのが、ここに立つ者の仕事だった。
不意に、ピンと指先で硝子瓶を弾いたような音を立てて、脳内が冴え渡った。暑さで鈍っていた思考回路が、一瞬にして活動を再開する。トクトク、トクトクと速まる心拍数に、関は目を細めた。
ほんの一瞬だけ感じ取ったのは、もうとっくに受け慣れてしまった感覚。同時に、戦闘態勢に入るための引き金でもある感覚だ。
ちりっと擦れるように刺さる敵意。それは関の視線の先から、真っ直ぐにこちらへと向けられていた。
横目で相楽を確認すれば、彼も関と同様に前方を鋭く見据えている。まだ新人であるにも関わらず、相楽はこの手の敵意や殺意、憎悪の感情に敏い。いち早く「敵」の接近に近付くのは、いつも相楽だった。
「……相楽。俺が声掛けるから、援護よろしく」
「了解」
隣の相楽にだけ聞こえる程度の小声で言えば、彼は前方から目を離さずに頷いた。
こちらに敵意を向けたまま、ゆっくりとした歩調で男が一人やってくる。
中肉中背、歳は四十を過ぎた頃合だろうか。淡い青のポロシャツにスラックス。肩から少し大きなボストンバッグを提げている。ふと見ただけでは、特に警戒すべき点は見受けられない普通の男性だった。
ただ、ぴりぴりと絶え間なく発されている敵意だけは隠せない。
そんなものを発している自覚もないのか、男は何食わぬ顔でUC館の入口を潜ろうと、関と相楽の間を擦り抜ける。彼の足がUC館に踏み入る直前に、関が男性の肩を軽く一度だけ叩いた。足を止めた男性は、眉間に皺を寄せ怪訝な表情を浮かばせて関を見上げていた。
関は、にこりと微笑む。ただ、口許だけだ。目だけはほんの一瞬も逸らさぬように、しっかりと見開かれている。笑みと警戒を湛えたアンバランスなその表情に、男性がたじろいだように一歩退いた。
「大変失礼は承知なのですが、その鞄の中、確認させてもらってもよろしいですか?」
まったく慣れぬ敬語で関が聞けば、男性の目は、途端に忙しなく左右に泳ぎ始める。それに気付いた相楽は、男性とUC館の入口の間に立ち塞がった。
「ねぇ、聞こえてます?」
どこか挑発的に、関が問う。
関の右手が腰の辺りへと動くのを、相楽は見逃さない。関が警棒へと手を添えた瞬間、男がボストンバッグを高く振り上げた。関に向けて、躊躇いもなく振り下ろす。
大きさの割りにずしりとした重さのバッグを左腕で受け止めた関へと、男が雄叫びのような奇声を上げる。その目は正気を失ったように充血していた。
男の声で驚いたように振り返った館内の来館者の間から、甲高い悲鳴が響いた。男がボストンバッグから取り出したのは、大振りなバタフライナイフだ。それはまっすぐに関へと振り上げられていた。
「関!」
凶器が見えたことで相楽が咄嗟に呼べば、関はにっこりと笑ってみせる。先ほどの警戒した笑みとは違う、後輩を落ち着かせるための明るい笑みだ。
関は、男の首を正面から鷲掴む。片手で男の首を掌握した関が、相楽へ向けた笑みを跡形もなく消して鋭く眼前の男を見据えていた。
「タイミング良いな、おっさん。今日は特別に『戦闘集団』様がお迎えしてたんだよ」
低い調子で吐かれた軽口の後、関は息をふっと堰き止め、男を片手で振り上げた。宙を舞った男の口から漏れたのは、ひっ、という苦しさからの嗚咽か、それともひぃ、という恐怖からの悲鳴だったのか。
人形を振り回すかのように弧を描き、易々と男を床へと叩き付けた関は、深く息を吐き出す。手を離せば、がくりと意識を失った男は床の上に倒れこんでしまった。握り締めていたバタフライナイフがからんと乾いた音を立てて転がり落ちる。
「……ちょっと……やり過ぎじゃないの、関」
白目を剥いてぐったりと倒れている男の傍らに膝を着き、その手を手錠でしっかりと拘束した相楽がちらりと見上げると、関は「へへへ」と笑った。
「あぁ。ギャラリー多いから、張り切っちゃって」
照れ隠しのように「てへへ」とわざとらしくウィンクをしてみせる関の視線の先には、泡を吹いて倒れる男を見て、きゃあきゃあと悲鳴を上げ続ける来館者たちだった。
一見普通の男性が引き止められたかと思ったら、ナイフを振り回し、かと思った瞬間に、『明らかに“あの”戦闘集団のような体格をした若い男』に片手で宙やら床やらへと蹂躙され、息絶えたように静かになったのだ。恐ろしい光景だったに違いない。
また『ファースト・フォースは戦闘集団。人だって簡単に殺せる』などと物騒なことを言われる謂れが出来てしまったな、と相楽は眉間を指で押さえた。
「まぁ、いいや……さっさと報告して警察に渡しちゃおう……って、関……?」
相楽が首を傾げる。
彼の視線の先、豪快に大人の男を振り回していた関が、何故かフラフラと足元を揺らしていた。まるで酔っ払いの千鳥足だ。覚束ない、という動きで揺れる彼は、何かを探すように背後へと退いていく。
関の不可解な動きを不思議そうに見ていた相楽は、はっとして右手を伸ばした。しかし、遅い。
伸ばされた相楽の指先は、後方へと崩れ落ちていく関の体に触れることが出来なかった。
どさりと重い音を立てて背中から床へと倒れこんだ関には、変わらずに照り付ける太陽が、ただ眩しかった。
「――っうぅ」
目を開くと、後頭部がぼんやりと重い。
緩慢に開かれた関の視界に映ったのは、見慣れぬ真っ白な天井だった。
感覚の鈍い全身は、柔らかなベッドの上に横たえられているらしい。びくりと跳ねるように動かしてみた指先が、滑らかなシーツの上を撫でた。
重いからだ。重い瞼。重い頭。それから、真っ白な部屋。とっぷりと体を包んでいる、消毒液の匂い。
あれ、あれ、これは? と関が瞬いていれば、しゃっという軽い音とともに、ベッドを覆っていたカーテンが開かれるのが見えた。
「起きたか、大馬鹿」
聞こえた声は、聞き慣れている。ひょい、と白い天井を遮って覗き込んできた美形に、関は引きつった笑みを返した。
「あれぇ、風早医師じゃないすかぁ」
「じゃないすかぁ、じゃねぇよ。本当に馬鹿なんだな、お前」
辛辣に返す美形こと医療班の風早は、手早く関の腕や頭に手を這わせて、何やらカルテに書き込んでいる。関に掛ける言葉は辛辣だが、触れる手は絹を撫でるように優しい。普段の、至って健康なときの関にはしてくれないような慎重な触り方だった。
「俺、どうしちゃったんすかねぇ」
「熱中症で倒れたんだろ」
「あぁ。やっぱり?」
苦笑すれば、風早は呆れたように眉を寄せた。
「相楽に良いとこ見せようとして無理したんだろ、どうせ」
「そうなんすよー。こう、ドーンって、一発KOしたところまではかっこよかったと思うんだけど」
「そんな相楽さん、こちらに来てます」
ひらりと身を翻した風早の向こうに見えた相楽の姿に、ぶはぁっと大袈裟に咳き込んだ。不機嫌そうに歪んでいる相楽の冷たい視線に、誤魔化すようにへらりと笑った関は、ズルズルと緩慢な動きで上体を起こす。
「いや、良いとこ見せようと……の件は冗談だからね?」
「どうでもいいよ、それは」
眉間を殊更寄せて睨んでくる相楽に、冷や汗が伝った。なにか、とても怒らせているらしい。
いきなり倒れたことか?
後処理を押し付けてスヤスヤ寝てたことか?
どれだ、と視線を揺らしている関に、相楽は大きな溜め息を吐いた。
「さっき木立さんから聞いてきたけど、昨日から具合悪かったんだって?」
「……ちょっと頭痛がしてただけ」
「なんで言ってくれないの。言ってくれたら、フォローだって出来たのに」
きゅっと噛み締められた相楽の唇に、関は慌てて首を横に振った。どうやら、怒っていたのは、体調不良を伝えていなかったからだったらしい。
「薬飲んでたし、どうにかなるって思って」
「でも倒れたじゃん。知ってたら無理に動かさなかったよ。お願いだから、」
早口で言った相楽は、やはり唇を噛んでいる。
寂しげに下がった相楽の視線に、関はオロオロと視線を彷徨わせることしか出来ない。
「お願いだから、無理はしないで。倒れたとき、焦った」
「……」
ほんの一瞬、泣きそうな表情をした相楽が、再度唇を噛んで踵を返してしまう。
そのまま早足で病室を出て行った相楽を見送った関に、カルテを両手の指先の間で揺らしていた風早は悪戯気に微笑んだ。
「お前が倒れたとき、相楽、血相変えて飛び込んできたんだからな。ちゃんと謝っておけよ?」
本当は、今すぐにも追いかけて行って謝り倒したい。関は、思うように動かぬ体に舌打ちをした。
相楽の、関に対する態度は淡白だ。質問をしても返ってこないことの方が多い。絡もうとすると、鬱陶しがられる。
けれど、一番年齢が近い分、相楽が関に親近感と信頼を寄せていることも知っている。だから関は、どれだけ冷たくあしらわれても、相楽に言い寄り続けていたのだ。
いざというとき、「仲間」として必ず頼ってくれるものだと、そう思ってくれていたはずだったのに。
「相楽の信頼、裏切っちゃったな……」
悲しげに歪んだ相楽の表情に、罪悪感が募った。
すぐに回復して、早く彼を追おう。
きゅっとシーツを握り締めた関は、罪悪感とは裏腹に、にやにやと弛む口元を隠しもしなかった。
外警番はつらいが、相楽と一緒なら、それも良い。
本当はそう思っていたことを、相楽にちゃんと伝えるつもりだ。