夜行の桜姫




「白夜」

 甘く低い声が私を呼ぶ。
 咄嗟に振り返り、桜で出来た絨毯の上で片膝を着いた。見上げると、獅桜の硝子玉のように曇りの無い目が私を見下ろしている。

「何を考えていた」

 問う声の後、視線が近付いてくる。
 私の前でしゃがみ込んだ獅桜が視線を合わせるように覗き込んで、窺う様な目をしてみせた。
 私は、ふっと口端を緩める。少しだけ、挑発的な目で。

「忌々しい神を喰らったときのことを思い出しておりました」
「……」

 獅桜の眉間に深い皺が寄る。私は小さく笑った。

「後悔しておりますか?」
「何を……」
「獅子の代わりに、私をこの地の守神にしたことを、です」

 ぐ、と獅桜が息を飲んでから、素早く目を逸らした。
 腰を上げて背を向けた獅桜の手首を掴む。細く、滑らかな、か弱い手だ。

「あの獅子は、永くこの地を守り続けていたことで、酷く弱っていた。私が喰らわずとも、早いうちには滅していたことでしょう」

 背を向けたままの獅桜が黙り込んだ。
 手首を掴む手を少しずつ移動させて、小袖に包まれた獅桜の白い腕をなぞってみる。
 細くとも神の代行として物の怪を排除する彼の腕は、適度に筋肉を纏う。肘よりも上へと手を滑らせて筋張った部分をなぞれば、獅桜の体が緊張するように強張った。

「獅子がとっくに死していること、ヒトは未だ誰も気付いてはいないようですね」
「……お前は、剛天様にも劣らない力を持っていたから……」
「ええ。だから、あの獅子亡き後を、私に任せてくださったのですよね」

 細く長い獅桜の指先に口付ける。咄嗟に手を引いて一歩離れた獅桜は、きっと鋭い目で私を睨んだ。

「ですが、限界でしょう。私は神ではない。物の怪です。神域無き今、この地は物の怪の溜まり場と化しつつあります」

 私のせいではありますが、と自嘲のように付け加えると、獅桜の視線が泳いだ。

「……剛天様が……」

 視線を逸らしたまま、獅桜が呟いた。

「剛天様がお前を襲ったのは、未だに私にも理由が解らない……神域を侵したとはいえ、お前は人に危害を加える気が無いと、私は思ったんだ」

 彼らしくない、自信の無さそうな声が響く。
 首を傾げて獅桜の顔を覗き込んでみれば、ゆっくりと顔を背けてしまう。

「だから、私はお前を説得して神域から出そうとした。けれど、剛天様は……」
「問答無用で私を排除しようとした。その理由が解らないと?」

 くすりと笑って聞けば、暫し黙り込んだ獅桜が、こくりと頷いた。
 思わず大きな声を上げて笑ってしまいそうになった。
 なんと愚かで美しいのだろう。
 己がどれ程までにあの獅子を魅了していたか、まったく理解してはいないのだから。

「獅桜、少しだけでもいい。厭らしい男になりなさい」
「……」
「あなたは、穢れが無さ過ぎます。それがあなたを象るものであっても、時にそれが愚かさを助長する」

 今のようにね。
 立ち上がって獅桜を見下ろせば、彼はぐっと唇を噛み締め、目を細めていた。神子として誇り高く生きてきた人だ。物の怪に未熟を諭されるのは屈辱的なのだろう。

「いずれにせよ、一時凌ぎで私を社に迎えたのは幸であったか、否か……」

 ぽつりと私が呟くと、私の声を掻き消す様に、喧騒がどっと響いてくる。
 何かと鳥居の向こうを見れば、その喧騒を撒き散らしている原因であろう一行が此方へと駆けて来るのが見えた。
 獅桜は緋袴を翻して素早く一行へと駆け寄っていく。私はのんびりとした歩調で獅桜を追った。

「神子様! 物の怪が!! 物の怪が……!」

 近くに住む地主の一人である老爺が、蒼褪めた顔で呻いている。見れば、老爺の腕は刃で斬られたように一直線に裂け、止め処なく鮮血が滴っていた。
 老爺について来た数人の従者は、一様に怯えきった表情で震えていた。彼らも、そこかしこに酷い裂傷をこさえている。彼らが放つ濃厚な血の臭いに、私は密かに眉を寄せた。

「物の怪が、皆を切り殺しているのです、神子……!!」

 横目で盗み見た獅桜は必死に縋り付く老爺を表情も無く見つめ、それからふと一瞬だけ、泣きそうな表情で私を見た。
 私は口端を無理に引き上げて笑みを返し、それから頷いてやる。すると、獅桜はすぐに老爺へと視線を戻した。

「社務所に人がおります。そこですぐに手当てをしてもらってください」

 いつもの落ち着いた声で言って老爺を引き剥がし、獅桜はひらりと軽く走り出した。
 参道を駆けて真っ直ぐに鳥居を抜ける彼を、私はぴたりと後ろについて追う。
 物の怪の姿の方が足が速いのだけれども、それでは獅桜を置いていってしまうので、私はいつもこのヒトの姿でいる。
 ……その方が、並んだ時の獅桜の目が優しい、というのもあるけれど。



 獅桜は、神社に駆け込んで来た老爺の住む館のある方へと駆けていく。神社の周囲を覆う竹林道を抜けて東へと向かう彼の後を、私は無言で追った。

 目的地へと近付く程にむっと吐き気がするような異臭に包まれて、眩暈がしていた。
 時折、前を走る獅桜がちらりとこちらを振り返る。この臭いは、獅桜も感じているのだろう。
 ヒトより嗅覚が鋭い私を気遣う彼に、私は何度もにこりと微笑んで安心させるのを繰り返した。

 館の前に着くと、獅桜は足を止めて大きく頭を振った。

「酷い……」

 異臭の原因は、間違いなくこの館だ。
 館を取り巻く濃厚な血の臭いとそれにねっとりと絡まる死臭に、私だけでなく、獅桜まで足元をふらつかせている。
 手を伸ばして獅桜の背を支えれば、彼はくっと小さく息を飲んでから、館の中へと駆け込んで行った。
 名の知れた地主だけあって立派な造りの館からは、物音もしない。
 草履を脱がずに土間から屋敷の中へと入っていけば、獅桜が再度首を振った。
 廊下を派手に彩っていたのは、真っ赤な人血だったからだ。
 床も、壁も、天井も、散った赤い飛沫でどろりと濡れ、ぽたりと滴った血が獅桜の真っ白な小袖を斑に染め上げていった。
 私が着ていた羽織を獅桜の肩へと掛けてやれば、一度びくりと肩を震わせた獅桜は、ゆっくりと一歩踏み出す。

 廊下の向こうにあった大広間の惨状は、獅桜の足を止めるには充分だった。
 そこに転がるのは、もはや、ヒトとは違う。
 ばらばらに四肢を切り裂かれ、ただの肉塊となった屋敷の住人たちの姿に、獅桜が片手で口元を押さえた。横目で見た彼の顔は、血の気を無くして病的な白さに変わっている。
 彼を背後に押しやってから、私は広間へと入っていく。
 足元でぱしゃぱしゃと跳ねる赤い血の池は、草履に染み込んで真っ赤に彩る。水分を吸って徐々に重たくなる足元に注意しながら踏み出す都度、ぐぽりと水分が破裂する音がする。
 その中でしゃがみ込み、そっと、ヒトであった彼らに手を伸ばす。
 無造作に床に転がっている赤黒い塊に指を伸ばせば、「やめろ」と獅桜が叫んだ。
 広間の入口で立ち尽くしていた獅桜は、目が合うと何度も首を横に振る。

「……獅桜」

 私が呼ぶと、獅桜は今にも泣き出してしまいそうな目で私を見つめた。
 赤い池の中で、私は獅桜へと指先を伸ばす。

「もう、限界です。放っておけば、物の怪はこの地のヒトを喰らい尽くしてしまいますよ」

 静かに、なるべく優しい声色で言った。
 獅桜は、唇を噛み締めたまま私から目を逸らさない。

「現状をどうにか出来るのは、あなたと、そして私だけです」

 ひたり、と天井から落ちた赤が私の頬を濡らした。
 指先でそれを拭うと、どろりとした生温い感触が手に広がっていく。
 私は、それや、足元に転がる塊に興味も沸かないし、むしろ放つ悪臭に気分が悪くなるのだが、大半の物の怪は人肉を大層好む。
 柔らかく、甘美な味のするヒトというものは、物の怪にとってはただの馳走にしか見えないのだ。
 今この地は、物の怪にとって、最上級の狩場でしかない。
 
「獅桜」

 私の声を遮るように、獅桜はそっと、震える目蓋を閉じた。


2013/3/4



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