「白夜さま、そろそろ涼みにいらしてください」
背後から聞こえた声で振り返る。そこには、黒い狐が恭しく頭を垂れて控えていた。細められた瞳から、彼が暑さに耐えていることを悟って、私はふふ、と笑ってみせた。
「私は暑さが苦ではないよ。お前は先に戻りなさい」
「ですが」
「川へ行って、今宵の宴用の魚を選んできなさい。ついでに身体を冷やしてくるといい」
私が言えば、暫し躊躇した黒狐は、しかし暑さに相当参っていたのか、一礼してから森へと戻っていった。
神域の外にある大きな森は、私の統治する場の一部だ。
夏の日除けにはうってつけの、鬱蒼と生い茂る木々を好んで、物の怪たちはそこに各々の住処を作っている。中央に流れる川には美味い魚も沢山いる。
そういった利便性から、私はここに残ることにした。私が縄張りを移動すれば、私を慕うものも、住み慣れた場を捨てなければならない。それは、少し残酷な気がしたからだ。
森の最深部にある松の木が、私の住処だ。
そこで寝て、そして陽が昇ると、私は森を出る。
神域の見える位置まで来て、そこでのんびりと腰を下ろして、一日を過ごす。
酷く、穏やかで、単調な日々。
神域の中にいたころと比べれば、平和で、暇な時の過ごし方だ。
それが私の本来の姿とはいえ、少し、寂しい。
必ず隣にいた温もりがないことを、一層悲愴めいて思い出させるのだから。
逢いたいと、思ってもいいのだろうか。
いや、だめだ。
それに、思っても詮無いことだ。
私には、あの結界を越える力がない。
思うだけ、狂おしくなるだけ。
けれど、思うのだ。
毎日、毎日、毎日、毎日。
日に日に変わっていく自然の姿を共有して、愛しさを注いで生きたあの日々が、ただ、呼吸を忘れるほどに切なくこの身を狂おすのだ。
そして、思い出せぬ『彼』に触れたくて堪らなくなる。
千の刻を生きた中で、こんなにも身を焦がしたことなど無かった。
だからこそもう一度、その甘い時の過ごし方に、身を投じたくなってしまう。
喉を震わせる。
沸き上がる情欲を吐き出すように、私はその音に、想いを乗せる。
『彼』には届かないその音が、甘い響きを持って木々を揺らした。
「獅桜」
なんと、美しい名だろう。
思い出せぬ姿。けれど、その名だけで、私はこんなにも焦がれる。
「愛しております」
はっきりと告げられなかった想いを乗せて、風が吹き荒ぶ。
青い草木を揺らす風に、私は口端を歪ませた。
幻想だと思った。
狂った私の作り上げた、虚偽の光景だと。
神域を覆う青い木々の下、白と朱を纏う美しい姿の青年が、私を見ていた。
その姿は、思い出そうと必死になる度に目蓋の裏側に浮かぶ、偽りの『彼』の姿と酷似していた。
風で簡単に舞う、細い漆黒の髪。
冷ややかな色を秘めた、大きな瞳。
燃えるような赤をした、艶やかな唇。
抱いたら折れてしまいそうな、華奢な体躯。
伸ばした指は、細く、白く、しかし力強い。
夢見た姿とまったく同じ形をしたヒトに、私の目は釘付けになっていた。
ヒトは、ふっと笑う。
物の怪である私に対して笑うその青年に、私はぞくりと背中を走る得体の知れない感覚を持て余してしまった。
青年は私に甘美な感覚を絶え間なく与える。
沸き上がる欲を飲み干すように喉を鳴らすと、青年は一層深い笑みを向けた。
「白夜」
呼ぶ声は、『彼』の声だった。
伸ばした細い指先が、私を指差している。
「どうした? 先に呼んだのは、お前だろう」
低い、甘い、優しい声。
望み続けた『彼』を前に、私は熱い想いに支配されて一歩も動けやしなかった。
彼は、―獅桜は踏み出す。
それ以上はいけません、と叫ぼうとした声も音にならなかった。
神域の境界を示す注連縄を一瞥した獅桜は、何の躊躇いもなく、それを乗り越えてしまう。
じわりと蜃気楼の様に神域が歪み、そしてすぐに元通りになった。周囲にわっとたち込めた桜の芳しい香りが、青い風に乗って舞い上がる。
獅桜は、神域の外へと踏み出していた。神域の外、つまり、私の縄張りの上で、獅桜はさらさらと成す術なく風に揺れる花弁のように、頼りなく立っている。 けれどその目には、恐れも、後悔も、何もない。ただじっと、私だけを見ていた。
そして、そのしなやかな両手を伸ばすのだ。
「獅桜」
呼ぶと、花の綻ぶような笑みが私へと向けられる。
夢でもいい。
夢でも。
抱き締めたその細い身体からは、季節はずれの甘い桜の香りがした。
包み込んだその花弁を、私は、もう、手離しはしないだろう。
了
2013/3/14