高校一年の三月。すでに俺は、勉強に飽き飽きしていた。
兄よりも頭の作りが良い俺は、大して勉強などしなくても兄と同じか、それ以上の成績など残せる。けれど兄の替えでしかない俺は、ただ黙々と参考書を開くしか居場所は無い。
そんな日々に嫌気が差していた頃、あのスロット音が耳についた。
机の上に置いたデジタル時計を見れば、いつもと同じ、十時を少し過ぎた頃。
ああ、大地だ。そう思って、カーテンを少しだけ開く。
真っ黒なパーカーに赤いマフラーを巻いた大地は、いつもと同じくおしるこのボタンを押したようだった。
スロット音を背中に、大地は駆け去っていく。マフラーからはみ出た口から吐き出される白い息が、濃紺に紛れて消えていった。
大地の姿が見えなくなると同時に、あの自動販売機が騒ぎ出すと、俺は驚いて腰を上げていた。
カーテンの向こうの窓を大きく開くと、あの自動販売機から流れているのは暢気なファンファーレ。当たったのだと気付いた時には、俺は無謀にも窓から飛び出していた。
二階の窓から飛び出すと、一階の父の書庫があるあたりの屋根にドンと両足から落ちた。そこから更に下に飛ぶと、母が大事に育てている花壇に着地する。
幸いにも、今日は両親揃って出掛けている。荒れた花壇は猫のせいにでもしておけばいい。
足が衝撃に侵食されていたが、少しずつラストに近付くファンファーレに焦って駆け出す。このファンファーレが終わるまでに商品のボタンを押さなければ、おまけは貰えないのだ。
けたたましく鳴る自動販売機の前に辿り着いた俺は焦っていた。すべてのボタンがキラキラと光って、暗い辺りを照らす。急かされているようだった。
俺が咄嗟に押したのは、大地が買ったおしるこ缶だった。
あたたか〜い、と書かれた赤いボタンを押すと同時に、ファンファーレは途切れる。がたん、と取り出し口に落ちてきたおしるこ缶を取り上げると、それは手が火傷してしまうのではないかという程に熱かった。
周囲は、夜の静けさに戻っていた。遠くで犬の鳴き声がして、街灯からはジリジリという音が鳴っている。小さな音でも、耳にツンと透き通って聞こえてくる。これが、いつもの情景だった。
熱いおしるこ缶を手に、俺は笑っていた。
二階から飛び降りるなんて無謀過ぎて。足はまだジンジンと痺れていて、靴下は真っ黒に汚れていて。三月なのに、薄手のシャツ一枚で道端でおしるこを抱えていて。
なんて滑稽なんだろう。なんて、非日常を味わったんだろう。
こんなにも心が沸き上がったのは、いつぶりだったろう。
騒音公害ばかりの好かない自動販売機に、俺は片手をつけて、思わず話し掛けたのだ。
「もっと早くファンファーレ鳴らしてやれよ」
そうすれば、大地は当たったことに気付いて戻ってきていたかも知れないんだから。
握り締めたおしるこ缶を手に、俺は再度笑いを吐き出した。