カクテル擬人化 -side story-
ビッグ・アップル

<ウォッカ + リンゴジュース>






 その店の扉を開くまでに、私は四往復ほど店の周りを歩き回った。

 余裕を持って開店十分前に辿り着いたというのに、携帯電話の時刻表示を見てみれば開店から五分経った頃だ。
 かれこれ十数分もこの店の前を行ったり来たりしていた私は、覚悟を決めるように大きく息を吸い込む。


 扉へと伸ばした手が少しだけ震えていた。
 もう一度息を吸い込んで、それから吐き出して、右足を大きく踏み出す。

 カラン。と、軽い音を立てて扉が開く。

 私はまだ開いていない。
 それどころか、意を決して伸ばした手を再度引っ込めたというのに、その扉は開いてしまった。


 呆然と見上げれば、店の内側から扉を開いた体勢のまま、黒いベストとギャルソンエプロンを身に着けた背の高い男性が、私と同じ様に目を大きく丸めていた。
 男性の向こう、開いた扉の奥は、淡いオレンジの光で照らされていた。


「いらっしゃいませ」

 響く、低い落ち着いた声が私を迎える。
 私を見下ろしていた男性が、ふわりと柔らかに微笑んで、中へと誘うように身を翻した。

 まるで執事のように、男性は私の前をゆっくりと歩いて中へとエスコートする。
 その背中を見上げていた私は、彼のあとを恐る恐るついていく。

 店内はこじんまりとしていて、数席のテーブル席と、六席のカウンター席があるだけ。
 事前に聞いていた通り、シンプルで落ち着いた内装だった。

 鼻腔を擽るのは、アルコールの匂い。けれどそれは、全く下品な感じはしない。
 充満したお酒の匂いに戸惑いはすれど、それはとても落ち着く上品さが含まれていた。

 物珍しげにきょろきょろと店内を見渡していれば、男性はカウンター席のチェアを一つ引いてみせる。
 そこに座れば、カウンターの向こうに移動した男性が目の前に立った。


「あの、マスターさん……?」

 思わず呟けば、男性は首を傾げて微笑む。
 それだけでも香る色気に慌てて視線を逸らして、あの、と裏返りそうな声を必死に抑える。

「大学の先輩から、このお店のことを教えてもらって……初めて来たんですけど……」
「そうなんですか。ありがとうございます」

 真っ直ぐに見つめて、満面の笑みを見せる男性を今度は繁々と眺めた。
 容姿は色気があって大人の男性、という風なのに、彼の笑みはとても幼い。そのギャップに、ガチガチに固まっていた体が幾分か解れていくのを感じる。


「外は寒かったでしょう?」

 不意に問われ、恐る恐る頷いた。

 柔らかな声のマスターは、カウンターの向こうで何やら手を動かしている。
 手元に視線を落としたマスターの睫毛が、店内を控えめに照らすオレンジのライトで影を落としていた。

 睫毛、長いなぁ。と目を奪われていれば、行き場無くカウンターの上に置かれたままの私の手元に、淡い桃色のカップが一つ、マスターの手によって置かれた。
 覗き込めば、見慣れた濃いブラウンの液体。香ったのはアルコールとは違う、甘い匂いだ。


「ココア……?」
「体が冷えているでしょうから、私からのサービスです」

 マスターがにっこりと笑う。
 その笑みに見惚れてから、ハッとしてカップに視線を落とした。
 そっと両手でカップを持ち上げると、じんわりと温かさが伝わってくる。

 控えめに口を付けて、一口。
 喉を落ちて、胸を伝って、身体中を温めていくその甘さに、ほっと息を吐いた。
 それからマスターを見上げてみれば、私の緊張が完全に解けたのを確認したのか、嬉しそうに微笑んでいた。
 このココアも、私への気遣いだったのかもしれない。

 噂で聞いたとおり、素敵なマスターだ。
 『初めての場所』をここにしたのは、正解かも。


「私、お酒、飲んだこと無いんですけれど……」
「そうなんですか?」
「……やっぱり場違いですか?」

 思わず逃げ出してしまいそうになる身体をどうにかチェアに縫い付けて、カップへと視線を落とした。

「三ヶ月前に二十歳になったんですけど……まだ、お酒飲んだことなくて」
「じゃあ、今夜が初体験なんですね」

 そろそろと見上げれば、マスターは変わらない優しい笑顔だ。目が合うと、殊更目元を緩める。

「腕が鳴ります。とびっきり美味しいものをお出ししましょうね」

 悪戯っぽく微笑んだマスターに、釣られて口元を緩めた。
 身体も心も解れた私は、静かに口を開く。


「このお店の話を聞いてから、ずっと来てみたいって思ってたんです。マスターさんがすごく優しいって」
「緊張しますね」


 困ったように微笑むマスターに笑い返して、温かいカップから手を離した。
 その手をきゅっと握り締めてから、それで、と続ける。


「先週、成人式に行ってきたんです」

 年齢的にも立場的にも成人になった記念に、このバーに来ようと思っていた。
 その成人式に出席するまでは、そんな気持ちだった。


「みんな、すごく大人になってました」

 晴れ着に身を包んで、高校卒業以来会っていなかった友人たちと再会した。
 そして、ゾッとした。
 皆、大人になっていたからだ。



 高校時代、一緒に子供じみた馬鹿をやった友人たちは、私とは違う大学へ進んだ。
 その進学先で、皆、色んな経験をしたようだ。

 顔が、違う。
 目が、違う。

 将来を見据えて話す声が、学んだことを吸収して大きくなった存在が全て、私を置き去りにして、あっという間に大人になっていた。


 変わらないのは、私だけだった。

 妥協して自分の学力に見合ったそれなりの大学に進んで、たいして興味も無かった学科で講義を受けて、バイトもしないで、それなりに過ごしていた私には、皆のような成長の兆しなど見えるわけもなくて。


 怖くなった。
 いつまでも子供ではいられない。けれど、私はまだ子供だ。

 華やかな衣装で身を包んだ友人たちは、成人式という節目で更に大人になっていって。
 けれど、同じように着飾った私は……?


「馬鹿みたいですけれど、バーに行けば大人になれるなんて思っちゃったんです。お酒を飲んで、大人っぽいことをすれば……」

 カップが少しだけ生温くなっていた。冷え始めているココアを飲み干してから、唇を噛み締めた。


「すみません。マスターさんはお悩み相談室じゃないのに」

 誤魔化す様に笑ってみれば、マスターは眉を下げて微笑む。
 切なげなその笑みで、気を遣わせてしまったことを悟る。

 一層馬鹿だ。すぐに愚痴ってしまうのも、子供っぽいから辞めようと決めていたはずなのに。

 どうしたって、私は子供なんじゃないか。




「出身を聞いても?」

 不意に聞こえた声に目を丸めて顔を上げた。
 目が合ったマスターの笑顔は優しくて、思わず泣きそうになってしまう。

「……青森です」
「ああ。今は雪が沢山降っているんでしょうね。成人式、大変じゃなかったですか?」

 はい、とどきまぎしながら頷く。

 成人式当日の天候は最悪で、せっかくの真っ赤な振袖が吹雪で真っ白になった程だ。
 キラキラした新品の草履には、雪で濡れてしまわないように、それと雪道で滑らないように、なんだか格好悪いビニール袋みたいなのを被せられて。

 今思えば、最悪の成人式だった。
 思い出して沈んでいれば、マスターは「青森といえば」と呟く。


「まぐろと、にんにく、長いも、黒房すぐり。あと、林檎ですかね」
「……詳しいんですね」
「常連さんで、青森出身の方がいるんです」

 笑うマスターは、グラスを幾つか手にとっては眺め、その内の一つを選び取る。

「私は成人式には出席していないので、どんなものなのかは解らないのですが」

 今度は淡い綺麗な色をしたボトルを一本手元へと移動させて、マスターは微笑んだ。

「懐かしい人たちと出会えて、楽しいんでしょうね」
「……」

 楽しかったかどうかは、よく解らない。

 最初は、久々の友人たちとの会話で興奮していた。けれど、少しずつ、少しずつ、皆との差が広がっていって、最後は、もう何も考えられなくなっていた。

 でも、そうだ。
 もうずっと会っていなかった中学の友人たちも居て、皆元気そうで、それが嬉しくて。


「……楽しかったです。とても」

 本音半分、見栄半分で言えば、マスターは眉を下げて微笑む。
 マスターには見透かされているのかもしれない。


「私も、長い間子供でした」
「え?」
「上京して大学に進んでからも、誰かと触れ合うのを怖がって、殻に籠もっていました。子供みたいに癇癪を起こして逃げたこともあります。だから私には、自分で決断してこの店に来てくれたあなたが子供だとは思えない」


 じっとマスターを見つめれば、ボトルから液体をグラスへと注ぐマスターが視線を落としたまま静かに口を開く。

「少なくともあなたは私と違って、自ら大人になることを望んでいますから」


 カラン、とグラスの中で氷が鳴る。マドラーでグラスの中を軽く混ぜてから、縁にカットされた林檎を飾る。
 それから私の手元に置かれたグラスは、淡いライトの下で控えめな黄色を湛えていた。飾られた林檎は、兎を象るように紅い皮で長い耳がつけられていた。


「お酒は初めてだというので、アルコールは控えめです」
「……これ、お酒なんですか?」

 恐る恐る触れたグラスはひんやりとしていた。
 タンブラー型のグラスには、ところどころ雪の結晶の飾りが着けられていて、その可愛さに加えて兎林檎だ。マスターのセンスは、案外少女寄りなんだな、と口元が緩んでしまう。

 中に注がれた液体は、濃厚なとろりとした黄色。
 くん、と匂いを嗅いでみれば、よく知った匂いがした。

「林檎だ……」
「ビッグ・アップルというカクテルです。林檎ジュースとウォッカで作るんですよ」

 どうぞ、と微笑んだマスターに後押しされ、そろそろと口をつける。
 唇を割って入ってくるのは、甘い甘い林檎の香り。それから僅かに大人びた爽やかなアルコールが口内に広がる。これがウォッカの味だろうか。

 蜜たっぷりの林檎を丸ごと齧ったような濃厚な林檎の甘さに、控えめで癖の無い大人の味が交わる。
 こくん、と嚥下すれば、口内に残ったのは甘くて爽やかな後味だった。


「……すごく美味しいです」
「良かった」

 ホッとしたように微笑んだマスターに、私はいつの間にか笑っていた。
 お酒を飲んだって、大人になれた気は全然しない。変わったところなんて何もない。
 けれど、この甘さは酷くホッとさせてくれる。


「急がなくてもいいと思います」

 そう付け加えたマスターに、はい、と頷いた。

 自分が感じていた不安は、成長できない自分への焦りだった。
 けれど、それでもいいと、マスターは言う。


「あなたはきっとまだ、青い林檎なんでしょうね」

 苦笑したマスターを見上げて、グラスをもう一口煽る。
 甘い甘い、それでいて、大人の味。

 私はまだ青くて硬いけれど、いつかマスターみたいに柔らかな甘さになれるかな。
 マスターみたいになりたい、と思った。






「あれ、マスター?」

 不意に店の奥の扉から、明るい髪色の若い男性が顔を覗かせた。
 私と同じか、少し上くらいの年齢の男性は、きょとんとした表情のまま私とマスターとを交互に眺める。


「まだ開店前っすよね?」

 男性がそう言って首を傾げる。
 え? とマスターを見上げれば、マスターは一瞬「まずい」と顔を歪めてから、苦笑して見せた。


「開店、六時からなんです」

 そんな声に、慌てて携帯電話の液晶で時刻を確認した。
 まだ、五時三十分だ。

「わぁぁぁ!! ごめんなさい!! 五時からだと思ってて……!!」
「いえ。ゆっくりお話が出来て楽しかったですから」


 ああ、どこまで青いんだろう、私は。


 顔を真っ赤にして何度も頭を下げる私に、マスターは困ったように眉を下げて微笑んでいた。


 私はまだまだ、こんな人にはなれそうにはない。
 けれど、いつか、いつか。 
 
 


2013/1/20
written by 鈴城はるま




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