「杏は、ここに居るよりも、もっと良いところに勤めた方がいい」
魚塚の声に、思わず片手でこめかみを押さえた。ほのかに沸き上がった怒りを、瞬時に抑え込む。
「もっと良いところが、この人の会社ってこと?」
「神なら信頼も出来る。ここより給料も断然多い。だから、」
「俺はあんたの店だからここに居るんだ。他より良いところなんてねぇよ」
手を下ろしてはっきりと言う。神は、黙ってマティーニを揺らしていた。
「……あんた、優しいもんな。悩んでたの? 俺は他に良い所に勤めた方がいいって。そんでこの人に頼んだの?」
「頼まれてはない」
ポツリと神が口を挟めば、杏は彼を睨んだ。
黙ってろよ、と言わんばかりの目に、神は肩を竦めてみせる。
「俺は好きでここに居るんだ。それとも、俺が必要じゃなくなった?」
「そんなこと言ってない」
「言ってるようなもんだろ」
握った拳をカウンターに叩きつければ、魚塚はキュッと唇を噛んで見つめていた。その寂しげな表情に、ぐっと息を飲む。
そんな泣きそうな顔をしたいのはこっちの方だ。
慕ってきた人に、捨てられるような気持ちだけが膨れ上がる。
どうにか縋りついていたいのに、苛立った感情だけが先行して、上手く気持ちを伝えられなかった。
給料なんてどうでも良い。
今後のことなんて、後から考える。
魚塚には恩が数え切れないほど有る。ただそれを返したいだけなのに、どうして捨てるんだよ。
「魚塚」
不意に、神の手がカウンター越しに魚塚の肩を叩いた。そっと視線を神へと移した魚塚は、やはり切なそうで。
神がこちらを向くのが解った。それでも、意地でも視線は合わせないようにする。
気にせずに、彼は口を開いた。
「なにも、魚塚はお前が嫌いになったとか、いらなくなったってわけじゃねぇんだよ」
そんなこと、言われなくてもわかっている。
魚塚は優しい。誰かを邪険にするような人ではない。
「俺と契約しよう、杏」
神の声が、幾分か低いトーンになる。
思わず顔を上げれば、目が合った神はにやりと、やはり楽しそうに、それでいて意地悪な笑みを見せていた。
「お前が俺の秘書になれば、俺は魚塚の店を全力で守る。ほらな、お前が守りたいもんは守られるだろ?」
視線の端で、魚塚が目を丸めていた。
そんな魚塚を一瞥した神は、再度こちらを見てから、今度はふっと真剣な表情で見つめてくる。
「魚塚が大事なら、俺と来い」
不安そうに見つめている魚塚の顔は見れなかった。
この、神という男は、思った以上に人をよく見ている。
杏がどれ程魚塚を慕っているのかも全て知っていたうえで、魚塚を秤に乗せた契約を持ちかけてくる。
商売人としての才能も、相当に高いらしい。
それに頷くのは、勇気が必要だった。どうにか頷いて、魚塚を見る。
縋る様な目をしてしまえば、魚塚も寂しそうな表情を一層暗くして、それから無理矢理に微笑んだ。
そんな彼の優しさを、自分のことを最大限に思い遣ってくれる彼の気持ちを、無下には出来ない。
そしてそんな杏の想いを全て掌握して、ホイホイと手のひらの上で転がした神のことは、やっぱり気に食わなかった。
◇
「そういえば俺、バイトの片割れ、見たことないんだけど」
不意に、ジャズを口ずさんでいた杏が言った。
氷をつるりと丸く削っていた魚塚は手を止める。
「すぐり、でしたっけ? あいつは見たことあるんだけど、もう一人は見たことねぇ」
「そうだったか? シフトが合わないのかな……」
「会ったらぶん殴る」
「なんで?」
慌てたようにこちらを見てきた魚塚に、杏は意地悪に笑ってみせた。
「魚塚さんに迷惑かけんじゃねぇよ、って」
「……憐二は強そうには見えないから、殴るのは止めてやって」
苦笑混じりの魚塚の肌は、相変わらず真っ白だ。
陶磁器のような色の白さは、本当にちゃんと食ってるのかと心配になったりもする。
見た目は儚いのに、色んなものを抱えて、色んな人を支えて、それでいていつも優しげに笑っている人。
それが、杏の最高の恩人だ。
「俺、神さんの秘書になって良かったっすよ」
不意に言えば、魚塚はほんの少し嬉しそうに微笑んでみせる。
「あんたを守れてるって、毎日自覚できるし」
実際のところ、神は、それまでもこれからも、杏が秘書になろうがならまいが、魚塚を守り続けていた。
膨大な財産の一部を使って、神が魚塚の店周辺の『柄の悪そうな奴』を取り払って治安を維持していることに気付いたのは、杏が秘書になってからの話だ。
「……あんたさ、魚塚さんのこと好きなの?」
思わず神にそう聞いたことがある。そうすれば、神はきょとんと目を丸めたあと、ゲラゲラと大声で笑った。
「好きだよ。お前なんかと比べもんになんねぇくらいにな」
ムッとした。
大人気なく口を尖らせて、不貞腐れた様な声が出てしまう。
「俺だって魚塚さんのこと滅茶苦茶好きだし」
「じゃあ俺、その百倍、魚塚のこと好きだな」
「………あんたの秘書が長続きしないわけが、よーく解った」
まったく、不思議になる。
魚塚さん、なんであんた、こんな男が好きなんだよ?
それは、一生問わない疑問。聞いたら、後悔するだろうから。
だから、さっさと幸せになってくれよ、魚塚さん。