ヤドカリ





「ゆぅ君」


 物思いに耽っていた雄大は、凪の声で我に返る。

 暫くぼんやりとしていたらしい。
 不思議そうにこちらを見つめている凪に、ギュッと眉を寄せて不愉快だと表情で告げる。


「ゆぅ君って呼ぶな」

「えぇ? いいじゃん、ゆぅ君」

 昨日と同じく、凪は白い八重歯を見せて笑う。

「ゆぅ君は、この家に思い入れがあるんだ?」

 不意に凪が言う。
 眉を寄せたままの怪訝な表情で彼を見れば、凪は眩しそうに目を細めてから、ゆっくりとした動作で立ち上がった。


「いいね。きっと、良い思い出が沢山有るんだ」

「……藤真?」

 どこか寂しげに低くなった凪の声に思わず呼んでみれば、屈託の無い笑みが返ってくる。
 その笑みには、寂しさなどは微塵も窺えない。

 裸足の足でぺたぺたと音を立てて畳の上を歩く凪は、雄大の隣に立って、壁に掛けてある時計を指差した。


「そろそろ準備しないと遅刻しちゃうんじゃない?」

 言われてから時計へと目を移せば、あと三十分で大学前を通る市営バスが、最寄のバス停に着くという時刻だった。
 一時間に一本しか来ないバスだ。これを逃すと、完璧に遅刻してしまう。


 凪はそのまま階段を軽快に上がって行ってしまった。
 遅刻しても堪えない程に適当そうに見えるのに、事前にバスの時刻を確認しておく程度にはしっかりしているらしい。
 そこに感心すると同時に、完全にここに居座るつもりでやって来た事に気付き、溜め息を吐き出した。


 雄大は麦茶の入っていた空のコップを片手に台所へと足を運ぶ。
 ふと見れば、シンクにあったはずの使用済みの食器は綺麗に洗われて、水切り籠の中に収まっていた。
 凪が洗ったらしい。



 少しだけ、凪の印象が変わりつつある気がした。
 まだ、彼が押しかけてきてから半日程度しか経っていないのだが。


 一瞬だけ感じた凪の発する寂しそうな空気が、妙に胸に突っ掛かる。

 雄大の知る藤真凪という人物には、哀愁という言葉は似合わないはずだった。
 それなのに、さっきの凪には確かに憂いを感じてしまった。
 どこか不安定な、幼い子供の様な儚さすら感じ取れた。


 右手で軽くこめかみを押さえてから、コップをシンクに置いた。
 とりあえず、学校に行く準備をしなくては。


 凪が動く度に、天井が軋む音がする。

 そういえば、この家での一人暮らしを始めてから、そんな音は聞いたことが無かった。
 誰かが泊まりに来ることは無かったからだ。


 少しだけ高揚した気持ちを押し隠す様に、勢い良く蛇口を捻った。




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