ヤドカリ
ヤドカリが住みついた日


 随分昔に、婆ちゃんにヤドカリについて教えてもらったことがある。



 海で見つけた小さな貝殻がモゾモゾと動き出して驚いて尻餅をつき、気に入っていたズボンを海水でびちゃびちゃにしてしまった時だったと思う。
 婆ちゃんは笑いながら貝殻を拾い上げて、こう言った。

「これはヤドカリって言うんだよ。
 こいつらはね、体が柔らかくて弱いんだ。だから、自分を守る『家』を探し歩いているんだよ。
 朝から晩までふらふらふらふら。より良い『家』を求めてあちこち歩き回って暮らしてるんだ」

 果たして婆ちゃんが教えてくれたことが本当なのかどうかは解らなかったが、ヤドカリってのは、忙しなくて臆病者な放浪屋なんだな、と幼いながら小馬鹿にした覚えがある。
 それは、お気に入りのズボンが濡れてしまった八つ当たりめいた感情だったのかもしれない。

 ただ、婆ちゃんの手のひらの上で殻に籠ったまま息を潜めるヤドカリが、妙に滑稽に見えた。


 おい、臆病者。そんなに怖いのか?
 指でつついてみても、結局ヤドカリは姿を見せようとしなかった。


 ふらふらふらふら。婆ちゃんの言葉がふと過る。
 そんな幼い頃の色褪せた記憶を呼び起こしたのは、何故なんだろう。


「七瀬君。今日から、この家に住ませてよ。」


 ……何故って、多分、こいつのせいだ。








 もうあと一週間もすれば、夏休みがやってくるという頃だった。


 七瀬雄大(ななせ ゆうだい)はその日、大学の講義から自宅まで帰って来たと同時に、夕飯の支度に取り掛かっていた。

 前日に隣家のミヨ婆ちゃんにお裾分けしてもらったトマトと茄子で、洒落たパスタなんかを作ろうと朝から思案していたのだが、いざ包丁を握った瞬間に立て付けの悪い玄関戸がガラガラと開いた音が聞こえてくる。
 基本的に、近隣の住民はインターフォンなんかは使用しない。勝手にガラガラ音を立てて戸を開いて、さっさと不法侵入してくるのが常だった。

 ああ、そういえばミヨ婆ちゃんが烏賊もくれると言っていたな、と包丁をまな板の上に置いてみれば、その耳に届いたのは、ミヨ婆ちゃんとは全く違う低い声。


「七瀬くーん。七瀬雄大君! 居るー?」

 聞き慣れない声だった。だが、どこかで聞いたことはある。

 雄大の住む地域といえば、四十代が『若者』と呼ばれてしまう様な若年層過疎地だ。
 近隣には自分より三回り近く歳上ばかりが住んでいて、こんなに若くてはっきりした声は郵便を配達に来る職員くらいしか聞かない。

 だが、今聞こえた声は、もはや顔馴染みになった郵便局員の声とは違う。それに、配達の時間はとっくに終わっているはずだった。


 まな板の横に置いてあった布巾で手を拭いながら玄関まで行った雄大は、ごくん、と唾を飲み込んだ。
 玄関先に立っていた人物に、目を丸めながら。


「あ、居た」

 雄大の姿を確認した来客は、満面の笑みで肩から提げた鞄を背負い直す。
 深緑色の大きなボストンバックだった。大容量を収納できるであろうそれは、中に何かしらが詰め込まれている様に膨れている。

 まるで三泊四日の旅行に向かう様な出で立ちで玄関に立っていたのは、雄大と同じ大学に通う学生だった。

 女子達の様に噂話を好むわけではない雄大だが、その人物の噂は多分に聞いた事があった。
 噂の的、と言うのがピンと来る人物だ。

 明るいシナモン色の髪は遠く離れていても目を惹き、その華やかな髪色に相応しい様な目鼻立ちの整った顔。
 少し垂れがちな切れ長の瞳は、長い睫毛に覆われていた。
 スラリと細い体つきに、長い手足は美形の風格をしっかりと兼ね揃える。
 雄大から言わせれば、『肩を叩いただけであちこちが折れそう』な軟弱そうなその人物は、女性からの絶大な人気の渦中に居る男だった。

 色が白く、美形で、いつも微笑んだ様に口角を上げている、優男。
 それが、この男──藤真凪(ふじま なぎ)だった。


 なぜ、そんな華やかな男が、大して接点も無い自分の家の玄関先でヘラヘラしているんだ。


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あきゅろす。
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