しあわせの方程式
風邪と看病



 風邪を引いた。
 本当、こういう時に一人暮らしってヤツは困る。
 頼れる人間がいない。どんなに辛くとも、自分で全てやらなければいけない。
 だけど、手は震えるわ、体はふらつくわ、まともに動くことなんて出来やしない。指を一本動かすことすら億劫で。
 自分のことを自分でやるってそんな当たり前のことが、どうしてこんなにも難しくなるんだろう。
(一人、なんだなぁ)
 そう、思い知らされる。
 一人でいるのが嫌いな訳じゃない。寧ろ、普段ならばわりと好きな部類だ。
 だけど、今、自分以外に誰もいないこの部屋は、とても寂しく思えた。世界に自分一人しかいなくなるなんてことはあり得ないのに、そんな錯覚すらしてしまう。少しだけ怖い。
(あつい)
 精神的にだけじゃなくて、肉体的にも辛い。
 掌の熱が、体の熱が、私を苛む。まるで、逃げ場をなくした炎が、私の中で暴れ回るかのようだ。
 このまま熱が上がるのが止まらなくて、もしかしたら、誰にも気付かれないまま死んじゃったりして?
 そんな馬鹿なことまで、あれこれ考えてしまう。

 ――ピーンポーン。
 唐突な呼び鈴の音が、呆とした頭にぼんやりと届く。
 数秒の時間を掛けて、それが来客を告げる音なのだと、私を呼ぶ音なのだと、私は気付く。
(ああ、出なきゃ)
 ずるり、と横たえた体を起こす。
 ごく普通の1Kのアパートである私の部屋は、寝室から玄関までは距離にしたら3メートルもない。それでも、風邪を引いた自分には辛いものがあった。
「え?」
 のろのろと漸く玄関に着いた私は、来客者を確認して頭が固まる。思考が停止した。
 その相手の浮かべた笑顔に、漸く、呆としていた頭が我に返る。
「そ、ら?」
 長い沈黙の後に零れた声は、驚きを隠し切れていないものだった。
 私の頭が可笑しくなった訳でないのなら、目の前にいるのは空だ。けれど、今日は講義の後はバイトではなかったか。
「うん。今日、風邪で講義休むってメール見て、心配になっちゃって」
「バイトは……」
「終わってから来たんだよ」
 ならば、もう夜の10時は過ぎている筈だ。時計を見ていないから、正確な所は分からないけれど。
 夜の風が、熱を持った肌を撫でる。それなのに、先ほどよりももっと熱くなったような気がした。
「……ばか」
 疲れている筈なのに。風邪程度に、わざわざ来るなんて。
「バカだよ、ほんと」
「うん、馬鹿だよ。ゆっくり聞くからね、先にベッドに横になろうね?」
 私の重い体を支えて、空は家に入った。
 その掌は、とても温かかった。





「さっぱりしてるから食べられるかなって思って」
 再びベッドに横になった私は、視線だけを動かして確認する。
 空がスーパーの袋から出したのは、みずみずしそうなリンゴだった。来る途中で、買って来たのだろう。
 食欲がなくて殆ど食べていなかったが、これならば食べられそうだ。
「ありがと。剥いてくれる? 包丁は流し台の下ね」
「うん。唯はちゃんと寝てるんだよ?」
 私が頷くのを確認すると、空は台所の方へと向かった。
 私は、それを視界の端に捉えながら瞳を閉じる。

「むっ!」
「う!?」
 けれど、暫くして、台所から何やら聞こえて来る、空の奇声。
(な、に……?)
 心配になり、私はベッドから出て、様子を見に行く。
 空は、林檎を剥くのに奮闘していた。あれから何分も経っているにも関わらず、四分の一も剥けていない。
 そして、その奇声はというと、手が滑ったり林檎が滑ったり、手を切りそうになったりする度に、発せられていたものだった。
 とにかく、見ていて途轍もなく危なかっかしい。下手したら、小学生の方が上手なんじゃないか、っていうくらい、空は包丁に慣れていなかった。
「ああ! もう、危ないからっ!」
 見ていられなくなり、私は空を止める。
(なんで、結局私が剥かなきゃいけないんだろう?)
 自問自答しながらも、結局、林檎は私が剥いた。だって、どう考えても、空には任せられる筈がなかった。
 包丁が使えないなら、せめて始めから、苺とか蜜柑たとか包丁を使わずに済むようなものを買って来てくれればいいのにと思うのだけれど。今更言っても、無駄だ。
 あまりにも空が凹んでいたので、代わりに、洗濯ものをお願いした。とりあえず、一つやらなきゃいけないことがなくなるだけで、随分楽になる。


「あ、れ? なんかぬるぬるしてるんだけど……」
 林檎をゆっくりゆっくり食べ終わらせる頃には、洗濯機が洗濯の終了を告げる音を鳴らした。
「うそぉ?」
 空の疑問に、私は洗濯機の方へと向かう。
 我が家の洗剤は、普通の洗剤だ。今までそういうことはなかった。
 確認すると、やっぱり空が言うようにぬるぬるしていた。
「……あのさぁ、もしかして洗剤と柔軟性、逆に入れなかった?」
 まさかとは思いつつも、他に原因が思い当たらないので聞いてみる。
「え? あれ?」
(やっぱり)
 自然と零れてしまう、深い溜め息。
 これって、お約束な展開だろうか? よく漫画にありがちな、看病を巡るお約束。
(……ああ、もう! そんなお約束なんて、いらないってば!)
 私は、体調悪いのに。動くの辛いのに。
 泣きたくなってきた。





 漸く落ち着いたのは、一日が終わりそうな時間帯
だった。
「ごめんね」
「いいよ、仕方ない」
 しょぼんとした空を、私は宥める。
 体が熱くてだるい。ぐったりとした体は、ベッドに沈む。
「唯、大丈夫?」
 空は、申し訳なさそうに顔を覗きこんでくる。
 私はなんとか気丈に、とは思うけれど、なかなか難しいものがあった。大丈夫だと返答した声は、明らかに弱々しかった。
「でも、俺の所為だよ、ね」
 そんな私の様子に、しょぼんとうなだれる空。
 辛いのは確かにそうだけど、空がそんな調子だとこっちの調子まで狂ってしまう。
 何か今の空に出来ることを、と考える。お風呂掃除とか水枕とかくらいならお願い出来るかなぁ。
「……じゃあ、寝るまででいいから……手、握ってて」
 でも、反射的に口から出た言葉は、考えていたものと全く違っていた。それに、私は驚く。
「え?」
 空も自分の耳を疑っているようだ。私がこんな甘えるようなことを素直に言ってしまうなんて、信じられる筈がない。
 ああ、こんなことを言ってしまうのは、熱があるからだ。風邪を引いて弱っているからだ。じゃなきゃ、そんなことなんか、言うものか。本当、誤解しないで。
「うん、いいよ」
 空が私を見て、嬉しそうな笑顔を見せた。
 私は顔を逸らすけど、隠しきれてはいない筈だ。恐らく真っ赤であろう顔は、熱の所為ってことにしておいて。
 そっと繋いだ手は、とても心地良かった。私は一人じゃないんだって、教えてくれた。

 ――結局、空が役に立ったのは、手を握ってくれていたことだけだった。
 だけど、それでも、充分だと思ってしまった。






END

2010.8.22




8/13ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!