しあわせの方程式
君がいればそれだけで
「ふぁ……っ」
零れ落ちそうになる大きな欠伸を、私は何とか堪える。
とにかく、眠い、の一言に尽きた。今の私は、気合いでなんとか起きているようなものだった。
講義をしている教授には悪いけれど、興味の範囲じゃない。話が右耳から左耳へと通り抜けていく。
「……であるから……」
二百人くらい入るような大きな教室の為に、教授はマイクを使っているけれど。それでも、大きいとは言えない声。
周りを見てみれば、同じようにぼんやり、眠気を耐えている人間も数え切れないくらいにいる。……あ、目の前の人が机に突っ伏した。
話は回りくどいし、つまらないもんね。ゆっくりとした話し方も、声も、まるで眠りを誘う子守唄のようだし。
それでも、とりあえず私は寝ることはしない。苛々しながらも、なんとかその時間が過ぎるのを待つ。
そうして、何とか辿り着いた、授業の終わりを告げるチャイム。それに、教授の声が止まる。
零れそうになる笑みを耐えながら、私は席を立った。
この後の予定を考えると、つまらない講義に対する苛立ちなど一気に消える。
*
学校内にあるカフェで、ゆっくりと私は時間を過ごす。
空との待ち合わせだ。講義が終わったら出かける予定なのだが、空はまだ一つ講義が残っている。
「ふわあぁ……いい天気」
窓の外は、とても良く晴れていた。青い空と白い雲とのコントラストが眩しい。
肌を撫でていく春の柔らかな風、そして温かな日差し。その心地良さに、私は目を細めた。
こんな風にのんびりするのは、久しぶりのような気がする。最近、学年の代わり目だからか、やたら忙しかった。
そういえば、空とのデートも久しぶりだ。大学内で会うくらいだった気がする。そう考えると、頬が緩む。
腕時計を見る。待ち合わせの時間まで、まだ一時間以上ある。
行儀が悪いかも知れないけれど、私は机に突っ伏した。
(……ほんの少しだけ)
そのまま寝てしまうつもりはないけれど、そっと瞳を閉じた。
――それから、どれくらい経ったのか。
身じろいだからか、唐突に何かが肩に当たった感触がした。私は小首を傾げる。
「……あ……れ?」
呆けた頭で、自分が何をしていたか考えるが、全く記憶にない。
空を待つために、カフェにいたのは覚えている。けれど、そこから先、今までの記憶が全くないのだ。
ゆっくりと視線を上げると、目の前には空がいた。
肩に触れたのは、空の体だったのだろう。
「もしかして、寝てた……?」
――あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう?
「おはよう。うん、ぐっすりと」
「うわ、ごめんっ! 今、何時?」
聞きながら、視界に入ってきた窓の外の色に、固まる。
昼から夜へと移り変わるような、オレンジと藍の混じった空。
「5時くらいかな」
「ああー、うそ! もう何処にも行けないじゃない! 起こしてくれたら良かったのに……っ」
「気持ち良さそうに寝てたから。最近、疲れてるみたいだし」
――疲れていた。
確かに、自分が寝たことにすら気付かないくらい自然に寝てしまった程、疲れていた。
空の言葉は尤もだけど……。
「……何処にも、行けないよ。いっぱい行こうって話してたのに……ショッピングにも、水族館にも……」
ぐっすり眠ってすっきりした頭とは反対に、気分は落ち込んで行く。
空が行きたいと言っていた、楽しみにしていた……だけど、私が寝てしまった所為で何処にも行けないのだ。
申し訳なさで、涙が出そうになる。
「……ふ、にゃっ!?」
唐突に頬に走る痛みに、私は間抜けな声を上げた。
何かと思ったら、空が私の頬をつねっていた。
「気にしなくていいってば! ショッピングも水族館もいつだって行けるし。起こさなかったのは俺だよ?」
「でも……」
「分かってないなぁ、俺は唯と一緒なら何処でもいいの!」
そう、太陽のような笑顔で空は笑った。
「唯は違うの?」
「あ、う……!」
――顔が赤い。絶対絶対、今、私はりんごのように赤い顔をしている。
ああ、本当に私は不意打ちに弱いらしい。一応、自覚はあるけど……。
赤くなった顔を空から背ける。恥ずかしくて、悔しくて、こんなもの見せてられない。
そんな私の態度へ小さな苦笑、そして程なくして頭に降って来た温もり。それが空の掌だと気付くまでに数秒を要した。
「唯?」
追い討ちを掛けるかのような、問い。自棄になったかのように、私は怒鳴り返す。
「……ああー、もうーっ! 同じよ、同じ! 聞くまでもないこと、聞かないでよっ!」
代わり映えのない大学内。勉強するにはいいけれど、それ以外に楽しいものなんてない。デートの代用になんてなる訳がない。
……だけど、空と一緒ならそれだけで楽しい。場所なんて、ものなんていらない。
空がいればそれだけで、なんて乙女みたいな思考に私は顔を赤くした。
END
2010.6.27
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