掌編・短編小説集




「……ふぅ……」
 体重のままに後ろに倒れ込むと、柔らかなソファーがその体を支える。
誰もいない、プライベートな空間である自室で、フィアラは大きな溜息を吐いた。
 噂はあくまでも噂でしかない。人から人へ伝わっていくうちに、様々な憶測や期待が交じり、面白おかしく、他人を貶めるようなものになっていくというのが、噂の本質だ。
だから、それを一々気にしていたら切りがない。
フィアラは、父がやったとは思ってはいない。あの父が、そんな人殺しなど出来る筈がないのだ。
奔放であり、気まぐれな、自分勝手と言っていいような人間だが、心だけは優しい。民を思い、他人を思える人間なのだ。政治や他国との外交で、策謀を巡らしたことすらない。
 ――だが、曖昧なのだ。
 父――キルトは、否定もしなければ肯定もしない。そんなことでは、アーリア王国が動き出すのは当然のこととも言える。
 一国の王に関わることなのだ、例え噂とは言えど、そんなものが世間で囁かれている中で、それを放置出来る筈がない。
「今日はもう寝る……か」
 いつもよりも強い疲労感に、フィアラは頭を押さえた。
ここの所、多忙を極めていたが、激しい頭痛を伴うようなそれに、早々に眠ることに決める。ベッドに向かおうと、フィアラはソファーから立ち上がった。
――その、瞬間だった。
「ッ!? 結界が破られた!?」
余裕のない、悲鳴にも似た自身の声が、広い部屋に響き渡る。
血の気が、一気に引く。彼女が、アースに魔法で張っている結界が破られたのだ。
 フィアラ自身の魔力は高いが、やはりあまり強すぎる魔法を常にかけていれば疲れてしまう。その為、結界は結界であって結界でない。多少は手こずるだろうが、破れない結界ではない。ただ、誰かが触ったら反応するように、という程度のもの。
「歴史書など盗んでも何にもならないだろうにッ! “我を、運びたまえ”!」
 舌打ちしつつも、フィアラは呪文を唱え、魔法でアースを保管している部屋へと急いだ。

「アース!」
 部屋の前まで魔法で飛び、その扉を開けた瞬間、フィアラは声を張り上げる。
 その瞬間に視界に入ったのは、ちょうど侵入者がアースを抱えて、部屋の窓から出ようとしているところだった。
「その本をどうするつもりだッ!」
「げっ!」
 フィアラに気づいた侵入者は一瞬、振り返った。
 だが、当然ながら直後には慌てて窓から飛び出した。この距離では、間に合う筈もない。
「……ッ! あれは―─」
 だが、焦っていたのだろう、彼はこちらに注意を払い切れていなかった。それ故に、月明かりに照らされ、垣間見えた横顔。それには、見覚えがあった。
表情が固まる。最悪の事態すら、考えなければいけなくなるかも知れない。
「フィアラ様! 何者かが城へ侵入したようです!」
 フィアラの思考を止めたのは、足音だった。城の警護をしていた者達が駆け付けて来たのだ。
呟こうとした言葉を飲み込む。他の人間に知られてはいけない。そう思う。
「知っている! 何故、侵入など許したのだ!」
「す、すみません!! 至急、侵入者を至急追いま──」
「いい」
 それ故に、自分達の失態に慌てて青ざめる騎士団に、そう短く言った。
「え?」
 彼らは、フィアラの言葉に不思議そうにする。それも当然だろう、ならばどうすると言うのだろうか。己の耳を疑うのも当然だ。
だから、もう一度言ってやる。
「いいと言っているのだ」
「ですが──っ!」
「いい、私が追う」
「姫様!?」
「そこまでで慌てるものはない。国の重要機密だって、記されてはいても、私以外には見られないようになっている」
 狼狽する周りの者に、落ち着け、とフィアラは宥める。
 実の所、アースには魔法が掛かっている為、それほど心配はいらない。
 よほどの魔導士──例えば、アースを作った大魔導士と呼ばれた者ほどでない限り、読むことは不可能だ。重要機密以外の普通の歴史についてでさえも、読めない。
 そして、そんな大魔導士と呼ばれた者ほどの魔力を持つ者など、恐らく後にも先にも彼だけだろう。大魔導士と呼ばれた人間の力、作ったものはそれほどのものだ。
「では、供に幾人か……」
「私、一人でよい」
「ひ、姫様!? それは無理です!」
 慌てた様子の者達に、フィアラは全く頓着した様子もなくただ静かな表情で佇む。
 あの時に僅かに見えた横顔が確かにそうであったのならば、他の者を連れて行くと面倒な事になるのは明白だ。
「私一人で行く。誰も来るな。これは命令だ」
「………っ」
 命令という、高位の者から下の者へ対する絶対の言葉。
 姫であり、実質的な最高権力者にそう言われては、男達にはどうすることもできない。しかも、か弱いだけのお姫様ならまだしも、フィアラはその辺の男にさえ負けないような魔力の持ち主なのだ。
 言葉を詰まらせる男達を無視し、フィアラは呪文を唱えた。それは、アースの行方を辿るための魔法を使う為の呪文だった。






10/22ページ

[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!