掌編・短編小説集
10.銀色
  結婚前の兄妹/仄暗い



 机の上に置いた、小さな小箱。そっと開けば、銀色の指輪が光を放つ。
 まだ一度も嵌めたことのない、だが、あと数日で彼の薬指に嵌まる結婚指輪だ。
(もうすぐ。もうすぐ、なんだ)
 彼は、もうすぐ結婚する。生涯の伴侶に、と彼が心から望んだ女性とだ。
 結婚しよう、と指輪を渡した時のことは今でも鮮明に思い出せる。彼女は、花の咲いたような笑みをみせてくれた。待ち遠しかったが、もうそれも間近だ。きっと、彼女のドレス姿は綺麗に違いない。皆に祝福されながら、永遠の愛を誓うのだ。
 込み上げてくる嬉しさに笑みを溢しながら、軽やかな気持ちで階段を降り、食卓へ向かう。
「おはよう、父さん。母さん」
 朝食の準備をする母、椅子に座る父。この状態で食事を囲むのも、あとどれくらいになるだろうか。もうすぐ、ここには彼の妻になる女性が加わる事になる。
 そのくすぐったさは、なんとも心地良いものだった。
「あれ?」
 だが、はた、と止まる。
 幸せすぎて他のことに意識がいかないのか、気付くのが遅くなったが、父と母はテーブルにいるにも関わらず、妹の姿がそこにはない。その違和感に首を傾げる。
「あの子はもう食べたわよ」
「そう、なんだ……」
 その言葉に頷くものの、釈然としないものが心に残る。
 そういえば、もう随分と妹とまともに顔を合わせていなかった気がする。
「最近、貴方達が喋ってるところ見ないけど、喧嘩でもしたの?」
「そう、かな?」
 真っ直ぐに問うてくる声に、どきりとする。気ではなく、実際にそうだったのだろうか。
「そうよ。昔は、日が暮れるまでずっと外で二人で遊んでいて、私達が何度叱ったか」
(ああ、そんなこともあったっけ)
 苦笑する母の言葉に、遠い日の記憶が甦る。
 そういえば、幼い頃は、離れている時間の方が少ないほど、何処へでも一緒だった。彼は、妹の世話を焼いていたし、妹は彼に着いて行きたがった。
 だが、気付けばこうだ。気付けば、最後に会話したのがいつかも思い出せないくらい、話していない。
 ――それは、いつからだろう?
 彼は首を傾げるが、思い出せない。色褪せた記憶の海に沈んでいくかのようだった。





 窓からは、月の光が差し込んでいた。ランプの灯を付けることなく、窓際のベッドの上で、彼はそれを見ていた。
 そんな中で、不意に、彼の部屋の扉が開かれる。
「誰だ?」
 人の気配を感じ、入口へと視線を向ければ、そこには一つの人影があった。それはゆっくりとこちらに近付いてくる。
 彼の方へ近付けば近付くほど、月明かりが近くなる。少しずつ浮かび上がってくるその姿。
 それは、妹だった。彼の目の前まで来ると、妹は足を止めた。
 見上げれば、触れれば切れそうな鋭さを持った瞳と視線が合う。炎よりも赤い瞳には、強い憎悪が灯っていた。
 彼は、僅かにたじろぐ。言葉を発することすら忘れ、無意識の内にその瞳を見詰めていた。
 長く重い沈黙を破ったのは、糾弾するような妹の呟きだ。
「兄さんの、裏切り者」
 彼女にしては低く重い声音。彼はその言葉の意味を考える。
(裏切り、者?)
 だが、何故そう言われなければならないのか、彼には答えは見つからなかった。
 問おうとしたが、それよりも先にその疑問を読んでいたかのように、答えが返ってくる。
「小さい頃に、結婚しようって、約束したのに」
 憎悪すら含んでいるような声音に、彼は喉を詰める。
 その言葉に僅かに考え込み、ああ、と気付く。確かに、言った。そんな約束をしたこともあった。
 しかし、記憶が薄れるくらい遠い昔の話だ。幼い子供の口約束。他愛のない、言葉のやり取りでしかない筈だ。そもそも、それは兄妹である二人に現実としては不可能で。

「ねぇ、兄さん」
 妹の声に、彼は意識を戻す。
 唐突に、妹が彼の体に乗り上げた。吐息すらも聞こえそうな距離で、視線が交わる。
「ちょっ!」
 だが、彼の困惑など意に解さず、その唇は彼のそれにそっと触れた。ほんの短い間のことだったが、彼は固まったまま、妹を見つめた。
 月明かりの下、艶やかに浮かべられた微笑。それがあまりに、妖艶で。
 いつの間に、こんな表情をするようになったのだろう。彼は、もう随分と妹のことを本当には見ていなかったことに気付く。
「兄さん。私ね、考えたの。どうしたら、兄さんをあの女に渡さずに済むのか……ううん、あの女に渡さずに済んでも、また違う女が出てくるわ。どうしたら、私のもののままでいさせられるかしら、って」
 悩ましげに睫毛を伏せる様は、少女でも妹でもなく、「女性」だった。一人の女。
 彼の知らない、妹がそこにはいた。

「ねぇ、兄さん。愛してるの。だから、」
 彼女は、その先を声には出さなかった。
 唇の動き。それだけが、唯一その言葉を示した。

 ――だから、死んで。

 銀色の鋭い輝きを放つ何か。それが、唐突に線を描いて。
「あ」
 痛みを感じる間もなく、彼の意識はそこで途絶えた。


 机の上では、主も、意味もなくした指輪が、静かに銀色の光を放っていた。







2011.1.23


幸福からの転落を描きたかったのですが。



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