掌編・短編小説集
2
*
「綾川、今度はミスしてないか?」
横から掛けられたからかうような声に、私――綾川美咲は、手に持った書類から顔を上げる。
「う、あの時はごめん、谷口くん。でも、同じ失敗は繰り返さないよ!」
それは少し前のミスに関してのこと。今回任せられた仕事と同じ内容だった。
同期の彼――谷口くんにも関係のある仕事で、迷惑を掛けてしまった。付き合いの長い谷口くんはそれを心配してくれたのかも知れない。
「綾川って、いつも一生懸命だよなぁ。だから、あんまり要領良くないのに安心して仕事任せられる」
「なぁ、綾川。飲みにいかないか?」
「ごめん、用があるの」
「綾川ってさ、最近、毎週金曜日になるとやけに機嫌良くなるよなぁ。少し前まで落ち込んでたから心配してたんだけど、良かった」
同僚にかけられた言葉に、私はきょとんと顔を上げる。
同期の彼とはそれなりの付き合いになるから、多少は私の変化くらいは分かる。
「え、そう、かな?」
.ぎくり、と心の奧が軋む。悟られぬように普通に返すけど。
今日は、彼――雄司が家に来る日だ。だから当然嬉しくもなる。
「何かあるのか? 男でも、できたか?」
「う、ううん、別に」
でも、彼のことは言えない。
だって、私た
ちの関係は人に言えるようなものではないのだから。
「おかえりなさい!」
ドアの鍵を開ける音に、寝そべって本を読んでいた私は、飛び起きる。
一週間ぶりに会う雄司に、嬉しくてつい顔が緩む。
確かにこれならば、職場でこういう顔をしているのかも知れない。
「ただいま」
雄司は、そんな私に小さく笑って、キスをくれる。
ただ触れるだけの、優しいキス。それでも、甘くて、幸せな気分になる。
「ねぇ、今日は何時までいられるの?」
「泊まってくよ」
「え、ホント!?」
嬉しくて飛び上がるが、でも、本当に大丈夫なのかと不安になってくる。
雄司は、私と違って独り身ではないのだ。彼の家には、彼を待つ人がいる。
「……お、奥さん、は?」
口に出すたびに胸が痛んだその言葉にも、少しは慣れてきたような気がする。
後ろめたさと恨めしさ。色んな感情が入り混じる。
「仕事が立て込んでるって言ってきた」
悪いとは思いながらも、零れ落ちる笑み。
私は、嫌な女だ。嫌なだけではない、酷い。
自分の幸せのために、彼女を犠牲にしている。考えないようにしているけど、自分でもよく分かっている。
それでも、雄司は私にとって何者にも代えがたいものだから。雄司のためにならば、なんだって背負う覚悟がある。
「ご飯出来てるよ。今日はね、雄司が大好きな美咲ちゃん特製エビグラタンなのですー。プリプリのエビとホワイトソースが絶品! あ、それとも先にお風呂入ってくる?」
嬉しくて嬉しくて、声が弾む。
ご飯の用意でも、お風呂の用意でも、すぐに出来るように私は立ち上がる。
「他に選択肢、ないわけ?」
「え、わ!?」
でも、雄司は悪戯っ子のような笑みを浮かべ、そのまま私を引き寄せた。
大きくて広い腕に抱きしめられて。雄司の匂いにほっとする。
「俺は、美咲ちゃんが食べたいです」
耳で甘く囁かれて、力が抜けそうになる。
「……へんたい」
「変態で結構」
背けた顔。その所為で彼の真っ正面にきた耳は、格好の餌食で。ぺろりと舐められ、私は肩を震わせてしまう。
あとはもう、例によって例のごとく。いつも通り。私に拒絶することなんてできる筈もなくて。
食事もお風呂も後回し。そんなものは、些細な問題だった。
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