青色のさらば
玄関はじとじとと湿気臭く、土間は冷たく鈍い味がした。
人んちの玄関でぶっ倒れるなんてそうそうない経験。
鮮やかに散った俺の鼻血が、家主のものである赤のコンバースを汚した。
同じ赤でも違うアカ。色は同化せず、まるでこいつが誰かを蹴り殺したかのような、グロテスクな装飾を施してしまった。
ごめんと一瞬思ったけど、次の瞬間撤回する。
鼻血出させたのこいつだし。
鼻の下を軽くこすって、、俺はゆっくり体を起こした。
倒れた拍子にぶつけたらしい肩と腕が、ズキズキと痛む。足の指も痛い。なんかもう全身痛い。
すげぇ残念だと思いながら、俺をぶん殴った家主を見上げる。
「行けよ」
目が合った途端、そう声が降ってきた。
あんなに強く殴っておいて、彼の顔は平静を守っていた。
短いまつげが震えることもない。口元が歪むこともない。
小さい顔は石のように冷たい温度で、俺を見下ろしていた。
「みお…」
「行けよ。行くんだろ。さよなら言いに来たんだろ」
用が済んだならさっさと出ていけ。
あくまで静かに、ひたりと肌に張り付くような、声。張り付かれた場所から体が冷えていく。ひたひた、冷え冷え、すごく寒い。ここは、寒い。
俺はのろのろと立ち上がった。二人して立てば俺の方が背が高い。
光のない真っ黒な瞳が高度を追い、三白眼のまま静止する。
その機械のような動きが少し怖くて、誤魔化すように澪の頬に手を伸ばした。が、肌まで届く前に叩き落とされた。
喉が、何か言葉を生もうと息をはらむ。
しかしそれはゆらゆらとさまよった俺の視線と共に曖昧に揺れて、やがて細いため息となって吐き出された。再び声帯は眠る。
別れようと、言ったのは俺だ。
平行する日々。平衡する体温。ぬるくてぬるくて、何も感じなくなった。
俺の感覚が麻痺したのか、それともお互いが冷めたのか、そんなことは分からない。
だからこうして俺が一方的に殴られた結果が、正当なのか、甘えられているのかも分からない。
荒々しい暴力の後の澪の無表情。つるりとした顔に、俺からも傷を付けていいんだろうか。
きめ細かい肌を見つめながら、俺は粘つく口内を開放した。
「……引き止めないの」
「なんで俺が止めるんだよ」
「殴ったくせに」
「行くんだろ」
澪は聞かない。聞かないし言わないし何も見せない。
ひたすら俺の行動を促して、門はすでに閉めてしまった。早すぎる。
手ぶらでここに来た俺は、振り返ってドアを開ければ何も残さず進むことができる。
けれど、それでいいのか。何か必要なことを飛ばしている気がするのに。
(会話や、やりとり、渡し合い。だけどそれをする時間はもうなさそうで。)
逡巡の中、俺は澪から目をそらして、部屋の中を追った。
壁から半分見えるテーブルと、雑に引き出された椅子。
その下に、半壊したコップが落ちていた。
俺の「別れよう」の数秒後、澪が床に叩きつけたものだ。
あれは彼が元から持っていたものだけど、最近では俺専用のコップになっていた。俺の飲み物は必ずあれに注がれて出された。多分この部屋で唯一、俺のいた形跡になり得る物。
そのコップが、壊れて床に散らばっているのを見て、ああなんだか俺はいっぺんに捨てられたなと、静かに思った。
目を澪に戻す。
ただただ真顔でいる彼は、不思議と幼く見えた。
もう一度だけ、抱きしめたい。体温を知りたい。じわりと胸に赤黒い染みが広がる。
だけど俺はもう澪に叩きつけられた後だし、その破片で抱いたなら、きっと怪我をさせるのだろう。
三度口を開く。
乾いた舌は迷いながら、結局「じゃあ」と短く告げた。
頑なに立ち尽くす澪を背を向けて、ドアに手をかけた。
切り開かれた出口から、終わりと始まりを両手に連れた、冷たい風が吹き込んだ。
バタンと閉まる扉。
意志もなく俯いたら、新しい鼻血が垂れそうになって、慌てて指で押さえた。
不甲斐ない面ぶら下げて、どうやって帰ろうか。考えながら一歩踏み出すと、
ドカン!
たった今出てきたドアが、派手な音を立てた。
振り返るが閉じたまま。恐らく内側から澪が蹴り付けたのだろう。
いつも心配になるくらい我慢強い澪。最後くらい、言いたいことは言ってくれれば良かったのに、と思う。
だけどそれは間違いであることを俺は知っている。
これが終わりだ。揺るぎなく。だって少なくとも俺は、後悔をしていない。ドアも開かない。だから、終わり。
俺はずず、と鼻をすすって、歩き出した。
蹴り付けた足を納めた澪が、その後どうするのか。
少し考えたけど、泣きそうになったからやめた。
部屋の中は、暖かかったなあ。
駅前でティッシュ配ってたら貰おう。
澪の名前を、頭の中で呼ばないようにしながら歩いた。
透明な空気が、ひとひら、ひとひら、俺の心をはがしていった。
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