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愛とか嘘とか、もう
べりり。べりり。
絆創膏を紙からはがしては貼って、はがしては貼って。できたばかりの傷を覆っていく。テーブルの上には消毒に使ったティッシュの屑と、くるくると丸まった絆創膏の包み紙が多く散乱していた。
すり傷や切り傷が絶えない同居人の宮本くんのために、このひと月で消毒液を一瓶使いきった。処置をされている間は、彼は何も言わない。段々雑になっていくあたしの治療の手つきにも、痛いとも優しくしろとも言わずに、ぼんやりとふさがれていく傷口を眺めている。

「終ったよ」
「うん」

短く頷いて、彼はテーブルのゴミをぐしゃりと一掴みに、ゴミ箱に捨てた。

「どうして、買い物に行っただけなのに、そんなに怪我をしてきちゃうのかなあ」

立ち上がった彼に、ため息をつきながら嫌味をふっかけてやった。
歩いてたった十分のスーパー。そこへの行き帰りで、彼はヒジとスネを見事にすりむいて帰宅した。

「転んだんだよ。自転車が飛び出してきて轢かれかけた」
「ぼーっとしてたからでしょ。外にいるときくらい周りに注意してよ」
「注意、しようとは思ってるんだけど」

歩けば転ぶ。段差があれば落ちる。標識にぶつかる。家にいたって、壁や机にはぶつかるし、料理をすれば指を切る。
彼が無傷で一日を終えることはめったにない。
今まではそんなことは無かったのに、この、二か月ほどで、急に。

「あんた、いつか死ぬからね」
「占い師かっつの」

そう言って笑った宮本くんが、キッチンでヤカンに水を入れているのを見て、あたしも急いで椅子を引いた。

「あたしがやる」
「なんで、お湯沸かすくらいできるよ」
「前沸かしたお湯、手に注いでヤケドしたじゃん。いいから、コーヒー?紅茶?」
「紅茶がいいです……」

最大限の苦笑いで、彼は椅子に戻って行った。

そのきっかけがいつだったのか、あたしは知らない。いつも通りに流れているように見えていた生活の中で、彼の怪我の頻度だけがぐんと増えた。
気になって何度か「なにかあったの」と聞いてはみたけれど、あたしはただ部屋を分けているだけの同居人で、「何もないよ」と言われたらそれ以上追及することができなかった。だから、あたしは知らない。知らない、ふりをしてる。

しゅうしゅうと湯気を噴くヤカンから、ティポットにお湯を注ぐ。細かな茶葉が舞い上がった。

「何淹れるの?」
「アールグレイ、で良いでしょ?」
「……いいよ」

微妙な間に、あたしは一瞬だけ動きを止める。
変わったことがもう一つ。宮本くんがアールグレイを買わなくなった。今まで、切らすことなく買っていたのに。

小さなダイニングで、向かい合って座っても会話は少ない。あたしも彼もおしゃべりな方じゃなくて、紅茶がでるのを待っている間も、二つのカップに注ぐ間も、そっと黙ったまま。あたしはそれが嫌いじゃなかった。彼が、彼の眼が、こんなに遠くを向いていなければ。

「……淹れたよ」
「ああ、ありがとう」

すっと自然に伸びたように見える彼の指が、一度カップをつまみ損ねたのを、あたしは見逃さなかった。

「なあ、ユキ」
「……なに、あたし?」
「え、あ、間違えたごめん。ユイの好きな紅茶って何?」
「別に、アールグレイ好きだけど」
「他には?」
「他に……うーん、セイロンとか、かな」
「じゃあ、次はそれ買ってくるから。これもう、湿気て香り抜けてるからさ、捨てとくよ」

ああ、うん。
あいまいな返事をしながら、あたしはカップの中に視線を落とした。
二か月前に買ったっきりの、開封済みの茶葉からは、確かに香りが抜けていた。
あたしの頭の中は、もくもくと薄暗く曇っていた。

ユキ、ユキヒト。名前だけしか知らない。宮本くんの友達。
友達だと、宮本くんは言ってた。けれどあたしは、そうじゃないことを知っていた。
宮本くんが何も話さないから、隠しているんだろうと思って、深く聞かずに黙っていた。ただ“仲の良い友達”の話をあたしは聞いて、笑っていた。名前が似ているから、今みたいに呼び間違われることもしょっちゅうで、好きな食べ物や飲み物もよく似ていて、一度は会ってみたいなあなんて思っていたのに、

会うこともなく、宮本くんが、ユキヒトという人の話をすることはなくなった。多分、二か月くらい前から。

「冷めるよ」

やわらかくかけられた声に、はっと我に返ると、宮本くんは自分のカップを流し台に片づけていた。その後ろ姿を眺めていると、彼はまだたくさん残っているアールグレイの袋を掴んで、少し眺めてから、ゴミ箱に捨てた。

「宮本くん」
「何?」
「あたし、やっぱりアールグレイが好きだな」

言うと、宮本くんは振り向いて、困ったように笑った。

「そっか。じゃあ、新しいの、買ってもいいよ」


優しい彼は、何も話さない。
だからあたしは、何も「知らない」。


(名前が似ていて、ごめんね)
(同じ紅茶を好きで、ごめんね)

残っていた紅茶を一息に飲んだ。
空のカップを手に立ち上がって、スポンジを持つ宮本くんの横に立った。居心地悪そうに、チラっと見られる。

「……洗い物は流石に怪我しないと思うんですけど」
「見てるだけだから、気にしないでください」
「気になるんですけど……」

丁寧に食器を扱う彼を見ていると、胸のあたりがきゅっと縮んで、下唇を噛んでしまいそうになる。
ざあざあと流れる水音に、体の奥から湧き出てくるつぶやきが散っていく。
目の前にある肩に、首に、体に、しがみつけたらいいのに。
あたしはこんなに宮本くんのことを見ているのに。

こまごまとした変化に、あたしは少しずつしか気が付けなかった。
彼があまり笑わなくなったこと。視線が定まらなくなったこと。宮本くんの心は何も言わないでふらふらと遠くに行ってしまう。それを追いかけるように、あたしの心は宮本くんに向かって伸びていく。
さりげなく、ゆっくりの、決して追いつけない追いかけっこ。
宮本くんのうつむいた横顔に、心臓がゆらぐ。一瞬だけ目眩を感じて、目を閉じたら、ほほに濡れた指先が触れた。
驚いて目を開くと、宮本くんが水を止めて、じっとあたしを見下ろしていた。

「……ほっぺた、濡れたよ」
「すでに濡れてたよ。ユキ、あ、間違えた、ユイ」
「……ばか」

小さな声で言って、瞼を落とせば、ころころと涙がこぼれていった。

「間違えすぎだよ」
「ごめんごめん。何があったの?」
「何もないよ」
「何もないのに泣かないだろ」

何も、ないのに、どうして宮本くんは帰ってこないの。
あたしは本当に言いたいことや聞きたいことは全部全部飲み込んで、ただのどうしようもない子供みたいにしゃくりあげるしかなかった。
しかなかった、訳じゃないけれど、あたしには何も選べなかった。気遣いもできず、わがままにもなりきれない。
だって宮本くんが何も言わないから。

あたしがいることであの人を思い出してしまうなら、ここを出て行ってもいいのに。紅茶の趣味が変わったんだって言ってもいいのに。
恋人だった、別れてしまったって、言っていいのに。あたしは聞くのに。
だけど、言わないことが宮本くんのあまりに弱い優しさだとしたら、崩さずにいることが良いのか、何もかも引きずり出して壊してしまうのが良いのか、あたしにはどちらも選べなかった。

「宮本くんがばかすぎて涙が出る!」
「失礼すぎるんですけど!」

あたしのことを笑い飛ばしてしまえるなら、自分のことも笑い飛ばしてよ。

宮本くんの服で濡れたほっぺたを拭きながら、どうして世の中はこんなに寂しいのだろうと、誰にもわからないことを、ぼんやり、考えた。




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あきゅろす。
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