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羊水と空

小さいころの夢はパイロットでした。
何かの折に見た、口のところからびよびよのホースが伸びているフルヘルムを被ったパイロットが、飛行機の中からぐっと親指を立てている。
そんなポスターを見て、純粋に格好いいと思ったのだった。日光を反射するアイシールド。丸く雲を映すガラス。頑丈そうな手袋。パイロットの見えないけどきっと笑顔から、パアァと放出される栄光と誇り。
それはまさしくヒーローの姿だった。
出で立ちからして、おそらく空軍かなんかのパイロットだったのだが、なんの知識も持たない五歳の俺は、自分があのポスターのように、ぐっと親指を立ててほほ笑むことをひたすら夢見ていた。
ただ、夢見ていた。


そして二十歳。
頼まれたって軍隊のパイロットになんかなりたくねえ。

「あっついし蒸すし今日最悪。ちょっとゴンちゃんクーラー入れてよ」
「クーラーはありませんあれ換気扇です残念でした」
「ムカつく。ゴンちゃんケチムカつく」

どんよりとした夕方。
昼間太陽は地球鉄板にバーベキューするつもりかってくらい火力マックスで地表を焼いた。
その後雲は地球蒸し器に肉まん作るつもりかってくらい空に分厚くふたをして、一日の熱量をそのまま閉じ込めた。
丸蒸しですか。誰がどんだけ食うんですか。神様か。神様ってグルメなのか。
このままじゃ鉄筋コンクリートのビルもふやけて食べやすい柔らかさになっちゃう。東京大阪北海道から沖縄まで、大きな舌がザラリと舐めとってしまう。それって世界の崩壊?

「ゴンちゃんどうしよう。世界終るわ」
「マジで?したらカードローン返さずに済むし。うれぴい」

ゴンちゃんこと木下ゴローくんはヒヒヒと笑って冷蔵庫を開けた。ドアの内側に並んでいるペリエの瓶がカチカチと鳴った。何か出すのかと思ったら、ゴンちゃんは上半身を半分冷蔵庫に突っこんだままじっとしている。クーラーないからってその涼み方。多分クーラー使った方が電気代安いよ買いなさいよ。

彼のカードローンで買ったのであろう高そうなヴィンテージジーンズが、壁一面にハンガーでつるされていた。ゴンちゃんの部屋にはタンスがない。置くべきスペースには本が積み上げられていたりゲームが積み上げられていたり、床にコンドームの箱がふた開けて放置されていたり、狭い部屋に不釣り合いなでっかいソファーが堂々と置かれていたりする。
革張りで、ふかふかと体が沈む気持いいソファー、兼ベッド。俺はそこにぐったりと寝そべって、窓の手前で揺れるカーテンをボーっと見つめていた。
空は灰色。視界の下の方に突き出している俺のつま先も灰色。
死んでる色みたいだ。

「明日世界が終るとして、も、何にもする事ねえよなあ……」

唇からだらしなくこぼれる声。
例えばテレビとか町内放送とかで「明日世界が終ります」つって云われて、まあ今言われても絶対信じないだろうけど仮に信じるしかないとして。
だとしても俺ができることなんて何もない。逃げられないしその前に自殺とかしても意味ないし。やりとげるべき中途半端なこともない、誰かのもとへ走るなんてこともない。
抵抗する理由もなく、このままぼんやりと寝っ転がって、無意味に明日を待つのだろう。

「ひーくん今日は面倒くさい子ね」

俺のつぶやきが聞こえていたらしい、冷蔵庫がしゃべった。

「ゴンちゃん玉子とか腐るよ」

窓の向こうをすいーっと小さな鳥が滑って行った。生暖かい風が吹きつけてきて、足の指の間をくすぐった。いつのまにか、ずいぶん暗くなっていた。
バタン、カチカチン。冷蔵庫はやっと扉を閉めてもらえたらしい。焦ったようなモーター音が聞こえる。
横に人が立つ気配がした。と思ったら、ひやりと冷たい体がのしかかってきた。うおっと叫んで飛び上がると、ニヤニヤ笑うゴンちゃんと目が合った。
涼しいべ、と言われて頷こうかと思ったが、その間にもどんどん温くなっていく。彼の熱と、俺の熱で。
肌が触れ合う部分が気持ち悪くて、俺は何も言わずに再び頭をソファーに預けた。

「世界が終るったってさあ、別にいって感じだよねー」

俺のお腹の上でゴンちゃんがしゃべる。全く同感だけど、俺は聞いた。

「後悔とか、ないの?」
「うーん探せばあるかもしんねーけど、終っちゃうんなら仕方ないし。昨日買ったおニューのジーンズもう履いたし。昼に食ったラーメンくそうまかったし」

ゴンちゃんは即物的だ。単純とも頭が悪いとも言えるけど。一年先どころか明日のこともよくわからんけど目の前にあるものにはとりあえず本気で取り組む男。そんな彼を、実はちょっぴり尊敬していた。俺は目の前さえよく見えないから。

「あ、それと昨日ヤった子超気持よかったし」

幸せそうに歌うように言う。だからコンドーム転がってんのか。

「はぁーゴンちゃんやらしー」
「いやマジマジ。騎乗位への認識が変わったね。自分で動かねーでイくって初めてよ」

攻められるのも案外いいねえ、なんて彼はへらへらと笑った。
その笑顔を見て、やっぱりいいな、と思った。

ブリキの照明が下がる天井、煙草のヤニで黄ばんだ平面はどことなくノスタルジックで、特にこんな重苦しい天気の中ではふと悲しみを誘う。
ポスターの前に突っ立って目をキラキラさせていた俺よ、君ならどうする。明日に立ち向かうのか。
俺は今もバカだけど、あのころはもっとバカだったから、
「この戦闘機に乗って世界を終わらせるやつと戦うんだ」
なんて言うのかもしれない。それこそ神様とだって戦争繰り広げる勢いで。戦闘機どころか飛行機だって乗ったことがないのに、頭すっからかんだから。

それでも、夢と希望があったから、今の俺よりマシ。

「ひーくんは?何かしたいわけ?」
「うーん……あ、騎乗位」
「ぶっ!結局!つか完全つられてるしね!」

死んだ色をしているのはつま先だけじゃない。俺の全身、内臓も、心も。

「騎乗位、っていうか、セックスしてみたい」

へらへら笑っていたゴンちゃんの顔が、ガラッといぶかしげな表情に変わる。

「え、してみたいって」
「俺今までフェラチオが最高点だから」
「まさかの童貞カミングアウト?ファイナルアンサー?」

ぐいぐいと眉を寄せて、わざわざ顔を覗き込んでまで真剣に聞いてくるゴローくん。そんなに何回も言うか馬鹿。恥ずかしくないと言えば嘘なんだから。
無視していると、真上にある唇がぎゅっとへの字に曲がって、その中からうーーーんと低いうなり声が聞こえてくる。鼻の穴が若干開いて、髭が動いた。
動物的な動きに見入っていると、彼はおもむろに下半身までソファーに乗り上げてきた。もふっと柔らかく鳴くソファー兼ベッド。両足に彼のごわごわしたすね毛が当たってかゆい。腹に腹が密着して暑い。
意図が読めなくてゴンちゃんを見上げると、彼はにっこり笑って俺の頭の左右に手をついた。そして、言う。

「しようか。セックス」
「は、いやいや見境ないにも程があるだろって」
「親友の遺恨を放ってはおけん」
「親友の枠超えてるし。むしろ遺恨増えるし」
「天井のシミを数えてる間に終わるよ」
「おまえんちの天井全面シミだろ」

冗談なのか、本気なのか。木下ゴローはいつだって口にしたことはすぐ行動する。「ラーメン食いたい」つったらすぐラーメン屋行くし、「ナンパしたい」つったらすぐ手近な女に声をかける。有言実行を地で行く裏表のない男。
だけど動いたからと言って本気かどうかなんて分らない。投げ出した足に、強めの風にあおられたカーテンが触れた。
どうやって彼の本心を図ろうか、戸惑っている間に、ゴンちゃんの大きくてすべすべした手が、そっと俺の首をなでた。

「明日世界が終るんでしょ」

ぽつり。
落ちてきた声は、人肌の温度を持っていた。

「だったら俺何もしない。何もしないけど、寂しくはなるね。一人で死ぬなら」

ゴンちゃんの眉も、瞳も、口元も、優しい。
太陽はもうとっくに沈んで、部屋の中は窓が四角く浮かんでいるだけになっていた。そのわずかな光の中、深い色の彼の顔が、体温が、優しい。

「ひーくんがいたら、寂しくない気がするよ」
「……初めてが男って」
「包まれるって、いいもんよ」
にいっと笑って降りてきた唇を、俺はただ受け取った。
ゆっくり口の中をなでる柔らかな舌の動きが気持ちよくて、とろりと瞼が落ちた。
真っ暗なスクリーンに、あのポスターが浮かんで、すぐに消えた。

パイロットになんか頼まれたってなりたくねえ。世界が終っても俺にはプラスもマイナスもねえ。今は空洞な人生。
だけど、少し、自分以外の体が触れている部分から少しずつ、何かが満たされていく気がする。後先が考えられなくて金銭感覚がずれていて単細胞みたいな、でも俺の尊敬する、愛すべき馬鹿によって。

「後でガリガリ君買い行こうな」
「う、ん」
「明日のメシも買わなきゃいけないし」

ズルっとこすられて声が出る。
だからやっぱり、もう何回か日が昇ってほしいと思った。


(10/06/20)


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