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今日も優しく日が終わる
ピチピチと排水管からしたたる水の音が嫌だった。
スニーカーの先端に窮屈に食い込む爪先が嫌だった。
強く握りすぎてカーディガンの繊維と凹凸を合わせる手のひらが嫌だった。

ほの青く灰色な天気。春の雨が降りしきる中、マンションの廊下は噛みこなれたグミキャンデーみたいな匂いがした。かすかに、甘い。それは俺の唾液の味かも知れないけれど。もぐもぐと口を動かすと唾液が溢れて、飲み込んだ。口腔も鼻腔も青緑色になった気がした。

あしおと。あしあと。やわらかい血。






フローリングに耳をつけるようにして、丸まって横になっている。
体の左側は床にべったり張り付いて、コロンブスの卵みたいに平らな辺ができちゃってるに違いない。

広いプールにはらりと投げ出された布。そう言う気分だ。体温で生ぬるくなった雨水を毛布に、ざあざあと泣く風混じりの雨音を窓越しに聞いた。

密度の高い空間。体が粘土でできたみたいに重たい。まどろみから覚めたような心地で、両足を少しだけ動かした。
きゅ、と、スニーカーが床に擦れて鳴った。
あ、ああそうだ。部屋の中。靴も脱がないで。玄関に置いてこなきゃ。

「……もういいか……」

どうせ誰も踏み込まない部屋だ。久しぶりにノブを回した。こもった空気は埃の匂いしかしなかった。
こうして横たわっていて、肌にまとわりつく雰囲気には馴染みがあるのに、家具も壁も天井も既によそよそしくて薄っぺらい。色調の淡い絵に囲まれているみたいだった。嫌気も差さなかった。

深く息を吸って、吐いて、目を閉じる。
曖昧な闇が脳を広げた。

(今日は晴れだって聞いたのに、騙された。晴れだろうから傘なんかないし服も薄着で、靴の中までぐずぐずで)

流石にこの天候で花粉は飛んでいなくて、大量に鞄に詰めたポケットティッシュは無駄になった。どちらにしろもう雨に濡れて使いものにならない。捨てなきゃ。全部。全部。全部。

(しんとしたくうき。だれもいないの。おれしかいないの。はるなのに。はるだから。あしたははれですって。だまされた。うそつきうそつき)

みんな嘘つき。責任も重さもない小さな嘘を二酸化炭素みたいに自然に吐きながら人は生きている。誰だって俺だって。
嘘は目に見えない膜を張って、深い穴をやほころびを何重にも包んでふさいでくれる。だからそれは嘘なんて罪のあるものじゃなくて、きっと人が人を、自分を憎まないように身につけた、優しい目隠しの方法なのだろう。
尽きない怒りや恨みが収束せず拡散するように。優しく。優しく。

やさしくされた。うれしかった。

でも釘を打ちつけるために付けた目印をそっと消されてしまった。
だから俺は、迷子になった。釘は手の中で錆び、握る指は腐食が始まっているのに、まだ。

この世で一番残酷な結末は、本人が結末を知らないまま終わることだ。そうだろ。

(でももういい。疲れた。何百回も同じ景色を見るのは)

闇をそっと切り開く。
さっきよりも眩しく感じる部屋。鼻先からフローリングのつなぎ目がずっと、延びていた。

もう一度、深く息を吸う。
そうして全身に酸素が回った一瞬、
細胞が、
凝固した。


(明日は多分帰らないから)
(鍵、ポストに入れといて)
(今度また連絡するから)


「……ふ、」

何百回何千回意識に入り込んできた声が、未だ鮮明に頭を撃ち抜いて。
回路がぐちゃぐちゃに乱れて、視界が、歪んだ。

「う……ううっ、え……」

「今度」っていつか知らないし、俺の「明日」はまだ続いている。

やわらかい声はいつまでもいつまでも、録音したかの様に耳に残って、またやわらかく、圧し責めてくる。
いつまで、いつまで待てばいい。いつまで日を繰り返して、折り畳んで、抱えきれないほどの朝と夜を抱えきれないから次々に捨てて、そんなことを後どれだけ続ければよいのだろう。
しかし振り返ればすぐ「今日」に戻れて「明日」は目の前に透明な容器に入って置かれているのだ。中身が丸見えで体が引きちぎれそうになる。絶望。絶明。

「ぐう、えっく、う、ううううああ……」

あの日も雨だった。
あの日も死ぬほど泣いた。俺は動いてない。動けない。真価の問えない言葉は難しいから。

うそつき。

爪が床を引っ掻いて、吐いた血を逃がそうとしてる。
このままじゃ俺は俺の中で世界を殺してしまうだろう。
でもそんなことしたらお前はきっと悲しそうに首を横に振る。


だからもう、お願いだから。



たとえ俺が、この小さな島国を沈めるほどの涙を流して、人一人救えるほどの血を捨てたとしても、この部屋はずっと無言で俺を迎えるだろう。
肌のキメにまで染み付いた酸素と窒素と二酸化炭素の批准。
温度もなく優しい。


今日も柔和に殺される。





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