Gate of ...
雨 〜命を刈り取る者〜
宿主の体を傷つけることなく現れたそれは、固める前の粘土のような形のまま、宙に浮かんでいた。
「……くるか」
眼下の男が、にわかに警戒を強める。
それは、先程まで不良を相手にしていた時とは、まるで違う表情だった。
粘土が形を変える。
茶色っぽい不定形な物だったそれは、今まさに人型を形成しはじめている。
そう、まさしくこれは粘土なのだ。魔力を帯びた、魔力によって“肉体”を形作る粘土。
「ふぅぅぅ……」
瞬く間に巨大な人型へと変貌を遂げたそれは、地響きとともに着地した。
茶色っぽい色はそのままに、大きく裂けた口、赤く光る瞳が、顔に張り付いている。
身体は異常な大きさで、高さは一般的な日本人男性の2倍はある。横幅もそれと同程度。
しかし肥っている訳ではない。上半身──とくに肩と腕が異常に発達しているのだ。
その姿は、既に人のそれではない。
異形の巨人──禍々しいそれは、まるで悪魔のようだ。
否、これこそが“悪魔”なのだ。
人知れず“人を食らい”生きるもの。いわば『人間の天敵』。
だからこそ、悪魔にはわからなかった。
「貴様ぁ…なぜ、わしらに挑むぅ」
この人間は悪魔のことを知っていた。それは人間としては異常なことだ。
加えて、自分たちに攻撃まで仕掛けてくる。
普通、悪魔が人間を襲うことはあっても、その逆はあり得ない。
餌が、自ら狩人の口の中に飛び込むのと同義だからだ。
だから問うた。人間の真意がわからずに。
「何故、挑むか、だと?そんなもん決まってる」
男は悪魔の問いに、僅かに笑みをたたえ、不敵に、そして一切の怖れもなく言い切った。
「テメェらが気に食わねぇからだ」
その言葉は、完全に悪魔の理解を超えていた。
人間風情が、悪魔を、気に食わないから、挑む?
まさに“あり得ない”解答。
だが、それ以上に──
「調子にのるなよ、人間!!」
“怒り”が悪魔を支配した。
たかだか人間に、“餌”風情に気に食わないと言われたのだ。
本来なら、抵抗されることすら腹立たしい。だというのに、下等種族の分際で気に食わないと、上位種悪魔を怖れる様子もなく、言い切ったのだ。
男との距離は、およそ15メートル。悪魔にとってそれは0と同義だ。
一呼吸すら許さずに距離を詰めた悪魔は、その剛腕を容赦なく叩きつけた。
雑然と、しかし確かに舗装されていた路地裏は、たった一発。悪魔の一撃で砕かれた。
まるで、巨大なハンマーでビスケットを叩いたかのように、粉々に砕かれたアスファルトが舞い散る。
上空から降り注ぐ雨と相まって、まるで黒い雨のようだ。
こんな化け物じみた一撃、人間が食らえばひとたまりもない。
アスファルトを粉々にするような衝撃の前では、人間の肉体など粉々になる前に消滅してしまうかも知れない。
──そう、あくまでも“当たった”のならば
「ぬぅ」
巨大な右腕を地面に突き立てながら、悪魔は男を凝視した。
かわされた。呼吸すら許さない速度で繰り出した一撃を。
男の歩幅で、たった2歩。
たったそれだけ下がっただけで、地を砕く一撃は、その威力を無駄にした。
「人間……ごときがぁぁぁぁ!!」
人間には決してかわせぬハズの一撃。それをかわされた。
そのことは、頭に血の上っていた悪魔を、さらに激昂させる。
「……はっ」
アスファルトを砕いた右の拳と、それと同等の威力を誇る左の拳。
その両方を交互に、それも人間の拳打の数十倍の速度で放つ。
だが、それでも男は捉えられない。
造作もないことのように鼻で笑うと、事実なんの怖れも、苦も感じぬ表情で拳の嵐を避け続けた。
一撃。ただの一撃さえ入れば──いや、一撃“かすりさえすれば”男の身体は、醜いミンチのようになるだろう。
一撃なのだ。ただの一撃。一撃さえ入れば。無数に繰り出し続ける拳の、その内の一撃。たったそれだけだ。人間の反応速度を超えたスピードで繰り出し続けているのに、何故たった一発が入らない?
こんな人間は見たことがない。
得体の知れない人間に、悪魔は、苛立ち、焦り、次第に恐怖を感じはじめていた。
この人間には当たらないのではないかと。
この人間には勝てないのかも知れないと。
「ぐっ……オノレオノレオノレオノレオノレオノレェェェェェ!!」
一瞬でもよぎった恐怖を、振り払うようにして叫んだ。
男がどれだけ避けようとも、避ける体力がなくなるまで攻め立てればいいのだ。
この状況で、男からの反撃はない。
避けるのが精一杯のハズだ。
そう、悪魔が思いを巡らせた時、男が刀に手をかけた。
──瞬間、右腕が消失した。
「あ?」
間抜けな声は、自身から出たものだ。
いやだが、それも仕方ない。
いきなり、右腕が消えたのだから。
1秒、思考が止まる。現実の時間ではさらに短い間であろうその時間で、悪魔は何かが地面に落ちる音を聞いた。
視線が音をたどる。
視覚が捉えたのは右腕だ。一瞬前に、無くなったハズの右腕だ。
それを理解して──
「ギャアアあアああアアア!!?」
痛みが、ほとばしった。
腕の“切り口”から、脳天にかけて。まるで、火の手のように。
「腕が、わしの……右腕がぁ!?」
左腕で傷口をふさぐ。しかし、噴水のように吹き出る血と体液は、止まることはない。
「人間風情だとか、人間ごときとか、好き勝手言ってくれやがって」
その声に、悪魔は凍りついた。
「悪魔が人間の上だなんて、一体誰が決めたんだ?あぁ!?」
左手に握られた刀は鞘に納めたまま、黒衣の人間は歩き出す。
もはや悪魔には、その人間が『死神』にしか見えなかった。
悪魔を刈り取る者などが、人間であるハズがない。
「お、……おおおお!!」
反射的に繰り出した左腕は、悪魔の全力をのせていた。
これが外れれば、死しかないと、本能的に悟っていたからだ。
──故に、悪魔には死しかない。
避ける様子もなく余裕でたたずむ死神は、拳が自身に触れる直前で右足を繰り出した。
左腕をすり抜けるように放たれた蹴足は、がら空きだった悪魔の胸を正確に捉えた。
轟音が響く。
路地の終点、行き止まりの壁に悪魔の巨体が突き刺さった。
ただの蹴りだ。それが重さ1トンを越える悪魔を、10メートル以上先の壁まで吹き飛ばした。
壁が悲鳴にも似た音を立てて崩れ落ちる。
それに飲まれるように、悪魔もまた、一緒に崩れ落ちた。
「が……あ……」
「ここはテメェら悪魔の世界じゃねえ。人間様の世界なんだよ、憶えとけ」
ゆっくりと、その歩みのように、手にした刃を引き放つ。
煌めく銀の刃は、命を刈り取る意思を受けて、一層輝いているように見えた。
「待って…くれ、もう……人喰いは……」
それは悪魔の、最後の命乞い。
しかし、それすらも死神は余裕の笑みで受け流して──
「悪いな、ここにはそんな戯れ言、信じるお人好しはいねぇんだ」
悪魔の命は刈り取られた。
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