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雨ふり烏の長い髪 下 (HQ:黒日)
目を覚まして自分の腕の中に日向がいた為、黒尾は勢いよくベッドから転げ落ちた。その音でゆるゆると日向も覚醒する。

「なん…で一緒に寝てんだ…」

ずっと別々で寝ていたのに。黒尾の言葉に日向は気まずげに枕に顔を埋めた。

「…こわい夢見たから」

「子供か」

「ちげーしぃ…」

とりあえず、夢精してなくて良かったと黒尾は汗を流す。打ち付けた尻を擦りながら顔を洗おうと立ち上がる。

「クロぉ」

「ん?」

「おれのこと好き?」

ピタリと足を止めて日向を振り返った。日向はじっと黒尾を見ている。黒尾は咄嗟に日向に対する恋慕がバレたのかと思ったが、よくよく考えると、友情としての有無を問われている可能性の方が高いことに思い至った。

「あぁ、好きだ」

「…バレーしてなくても?」

「あぁ、バレーしてなくても」

それは本当だった。黒尾はバレーをしていた時の笑顔を見たいとは強く思うが、していなくても日向のことが好きな気持ちは変わらなかった。

「…えへへ、良かった」

日向は言葉とは裏腹に、全然安堵など感じていない顔でそう言って、瞼を閉じた。
煮え切らない思いを抱えたまま、いつも通り朝食を一緒に摂り、黒尾は玄関まで日向に見送ってもらった。
ドアを閉め、アパートの階段を降りる。壁に手をついた。

涙が、出た。

泣くのは高校の引退試合以来だった。

翔陽が好きだと、黒尾は 思う。

しかし自分では今、日向が苛まれている苦痛から救ってやることが出来ないのだと深く思い知らされた。ベッドに潜り込むくらい怯えているのに。

「………クソ」

黒尾はしばらく静かに泣いた後、遅れて大学に向かった。涙は既に乾いていた。



「よぉ」

「夜久」

大学の食堂でちっとも箸の進まないうどんをすすっていると、前の席に夜久が腰を下ろした。手にはカレーを持っている。

「…なんか元気ないな」

「気のせいだ」

「ふーん…」

「……」

「……」

「あのな、夜久」

「ん?」

「心の底から何かを憎む時ってどんな時だ?」

「…また突然難しいこと聞くなぁ」

「どんな時だ?」

構わず話を続けようとする黒尾の前で、夜久はスプーンを置いて頭を捻った。そして、そんなに悩むことなく答える。

「そりゃ好きなものに裏切られた時だろ」

「…好きなものに?」

「そりゃそうだよ。もし仮に心底憎んだものが人だった場合、果たしてそれはどんな人間かというと、好きな相手に決まってるだろ」

黒尾は動けなくなった。胸に沸き上がるのはとある可能性と嫌な予感だった。

「もしそこまで思入れのない相手だったら、おそらく憎みすらしないはずだ」

ガタリと立ち上がり、そのままうどんを夜久に譲って、黒尾は食堂を後にした。夜久は突然、何かに思い当たったように席を立った黒尾をぽかんとした顔で見送り、我に返ると麺が伸びる前にうどんをすすった。



そうか、そういうことか。

黒尾は自宅まで全速力で走っていると、公園でぽつんと、立ちすくむ日向を見かけて慌てて足を止めた。

日向の長い髪が風になびいて、ふわりと舞って、元の位置に戻った。

ただ俯いて地面を眺める日向に、黒尾を静かに近付いた。どこかの子供が地面に忘れていったボールを手に取る。構えた。

「翔陽」

日向の顔がこちらに向いたのを確認して、ゆるやかにボールを放った。

乱れのない、美しいトス。

日向は条件反射のようにトスに向かって駆け出し、そして。


地を蹴ることが出来ずに、そのまま膝をついた。



静寂が世界を支配した。
顔を上げて、悪戯がバレてしまった子供のように眉を下げた日向は、黒尾と目を合わせると、もう全てが溢れだしてしまった。

涙が地面に落ちて、静かに吸い込まれる。
絶叫が公園を支配した。
日向はそのまま地に手をついて泣き続けた。


「バレーなんかッ……大っ嫌いっ………!!!」


そう嘘をつき続けた。

黒尾は知ってしまった。


烏は飛ばなかったんじゃない、飛べなくなったのだ。


黒尾は日向にゆっくり近付き、ゆるやかな風のように抱きしめた。日向は黒尾の背に腕を回し、キツく爪を立て、激しく喚き、咽び、慟哭した。

どれだけ痛くても黒尾は構わなかった。それは日向翔陽の痛みだったから。


あぁ、翔陽。
お前、バレーを憎んだんだな。
二度と出来ないのなら、愛するより憎む方が楽だから。


日向はそのまま何時間も何時間も空を恋しがるように泣いた。



カーテンの隙間から、夕日が射し込む黒尾の部屋で、黒尾の腕の中で、日向はぽつりぽつりと話出した。

ある日、突然膝に違和感を感じたこと。嫌な予感がして地元の病院に行くとうちでは治せないと言われたこと。自力で調べて東京の有名な病院に診てもらうことにしたこと。そしてそこでも、バレーを諦めるように言われたこと。

髪が突然伸び始めたのは、初めの病院でバレーを諦めるように宣告された時からだったらしい。

「髪の病気の為に東京に来たんじゃなくて、本当は膝の故障の為に来たんだな」

「…うん」

「…帰りたくなかったんだな」

「……うん」

「帰るのが怖かったんだな」

「………うん」

透明の膜が未だ日向の瞳を覆っていた。話す度にぽたりぽたりとこぼれ落ちる。

身体を預けてくる日向の髪に黒尾は指を差し込んだ。すーっと解いていく動作を何度も何度も繰り返した。

この髪は日向の不安、憎悪、そのものだった。

こんなにもバレーを愛しているのに。世界そのものがバレーだったと言っても過言ではないのに。日向は脚を奪われた。



翼のなくなった烏はどうやって生きていけばいいのだろう。



日向のそんな気持ちが具現化したのが、まさにこの髪だ。すっぽりと日向を覆い隠して、縛りつける。

日向を連れ去った日を黒尾は思い出す。

あの日、本当に雨は降っていただろうか。
今となっては酷く朧気だ。
雨なんて降っていなかったんじゃないか。

泣いていたのは空じゃなく。
黒尾を見上げていた、日向だった。


「……」

黒尾の腕の中にいる日向は夕日と同化しそうになるほど紅く染まっていた。そんな日向の旋毛を眺めて、黒尾はゆっくり言葉を紡ぎ始めた。

「村田兆治選手は」

日向はびくりと、顔を上げる。

「昔のプロ野球選手だけどな、膝を故障して投げられなくなった」

「……」

「当時の技術で完治は難しかっただろうが、諦めず渡米して手術を受け、2年間のリハビリのすえ開幕から11連勝を挙げる復活劇を見せた」

「……」

日向は黙って聴いていた。

「諦めるのは早ぇよ、翔陽」

「……」

「医者の言葉よりオレの言葉を信じろ。確かにリハビリは辛いかも知れない、苦しいかも知れない。でも、お前はきっと復活する」

「……」

「それでもしダメだったら」

「……ダメだったら?」

黒尾は日向の瞳を覗きに込んだ。そしていつものようにニヒルに笑ったのだ。

「オレが責任とってやる。何でもしてやる。一緒に死んでやってもいい」

その男の言葉には嘘も偽りも一切なくて、あるのはただ覚悟だけで。
そんなことぐらい、日向は瞳を合わせた時に既に気付いていた。

日向翔陽は脚を失い、そして黒尾鉄郎を手に入れた。

その事実を知ると、例え絶望の中でも、何でも出来るのではないかという気持ちが湧き出てきて。

「じゃあ」

日向は彼の覚悟を確かめるのだった。


「一緒に生きてって言ったら…?」


黒尾は目を見開いて、ゆっくり細めた。微笑んだのかも知れない。





「…本当に、ここまでで大丈夫か?」

「おう、平気」

東京駅のプラットホームで、黒尾と翔陽は向かい合っていた。ガヤガヤとうるさい雑踏の中で、二人は相手だけを見据えていた。

「どこに泊まってたのか訊かれたどうすんだ?」

「安いホテルに泊まってたって言う。じゃないとクロが怒られるし」

「オレは別にお前の親に怒られても、殴られても構わねぇよ。それだけのことをした」

「違う!!クロは……」

日向の背後で新幹線のドアが静かに開いて、次々に人が乗り込む。この鉄の生き物は数多の人を飲み込み、遠くの地で吐き出し、また数多の人を飲み込んで生きる。初めて乗った時、蛇みたいだと日向は思った。

「クロは飛べなくなったおれを、抱えて走ってくれたんだ」

絶望から抜け出す為の必要な一週間だったと、日向は語る。

今朝、黒尾は日向の髪を切った。髪はもう伸びることなく、ふわふわと日向の周りで浮いていた。


駅員の声がする。もう乗らなくてはならない。黒尾は名残惜しむように日向の短い髪に触れ、そのまま目尻を優しく撫でた。日向は黒尾のその手に自分の手を重ね合わせる。ゴツゴツとした、自分より遥かに大きな手。

「…クロ、もし…」

あぁ、ダメだ。
我慢しきれなくて日向はまた、目の端から湿ってきた。

「もし、また髪が伸びたら……クロに切ってもらいに、行ってもいい?」

黒尾はきっぱり言った。

「ダメだ」

日向は途端に俯いて下唇を噛んだ。ぶつけてやりたい文句をぐっと、飲み込む。そんな日向を、あやすように温かいものが包み込んだ。

「今度はオレから会いに行く。絶対行くから」

日向は何度も瞬きを繰り返して、子供のように笑った。腕を黒尾の背に回す。ぎゅうっとしがみついた。

あの雨の日と対象的に澄みきった空が二人を照らしていた。


いつの日か黒尾は日向に会いに行くだろう。それがどんな時かはわからない。日向が二度目の絶望を味わい、髪が伸びた時か、それとも日向が再び飛ぶことが出来た時か、それはわからない。
でもその時はきっと、大きな蛇に乗って、黒尾は日向の前に颯爽と現れるだろう。







そしてあの日のように、日向翔陽を拐っていくのだ。

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