42話:17
「……触らないで」
まるでコウの怒りに同調する様に、冷たい風が集まり始めた。これ以上自分勝手な人間に翻弄されるのは我慢がならなかった。その怒りが風を呼び、風もまた強い反発を覚え、この東国人を最大限に警戒する。
決して触れさせはしない。お前の思い通りにはさせない。
そんな対抗心を剥き出す様子に男は少し躊躇いを見せた。
「東国を目の堅きにするのか? 我らがお前に何をしたというのだ。人を殺すからか? ならば帝国とて同じこと……東国と帝国のしていることに何の差があるのだ」
「国同士の古い争いなんて知らないわ。だけど貴方はリナに酷いことをしたもの」
「あれくらい、戦争にはつき物だ」
「そんな言葉で片付けないで。私にとって貴方は許せない存在よ。それ以上何かするようなら全力で阻止してあげるわ!」
コウが強く叫んだ、その直後のこと、背筋に悪寒が走った。
「……ぬ!?」
男が振り向く間もなく、突如発生した疾風に全身のバランスを崩した。
ぐっと足を強く踏んで体勢を整えたが「しまった」と苦々しい表情で呟いた。
「“影”が居たのか……。邪魔が入ったとしても相手は希薄な精霊だとばかり思っていたが。想像以上に手厚く迎えられているのだな」
しくじったとは言え、彼は愉しそうに口角を上げている。
この男は戦に血を燃やす獣であった。牢中ではおとなしく、まるで精気の感じられない弱小騎士の様であったが実際はそうではない。
コウが彼の鋭い眼を見て恐怖を感じた通り、冷徹で女子供にさえ容赦ない非道の騎士なのだ。
情に欠けた戦士など東国ではそう少なくない。寧ろルクード王子の様にある程度の道理を弁えた兵士こそ希少であった。
それは何も東国に限ったことでは決してないけれど。
「さて、小賢しい邪魔が入ったが……どうしたものか」
男は背から大槍を引き抜いた。戦う気のようだ。
彼の言った“影”というものが気になりコウはよろけながらも周囲を見渡すと、短剣を構えた黒戦士……神軍長の第一家臣がそこにいた。
アークである。
「うそっ!」
思わず「げ」と呟いてしまうのは仕方がないだろう。サラもそうだが、コウは本気で、隠れて付いてくる帝国兵士を完全に撒いたと思っていたのだから。
だが、影はしっかりと追跡していたというのだ。
「あーあ、脱走失敗かぁ。何がいけなかったんだろう」
そんな他愛も無い呟きに、アークの眉がぴくりと跳ね上がった。
「コウ様、いい加減にしてくれ。あっちこっち動かれてばかりでは仕事に支障が出る。この程度の距離なら造作ないが、海まで渡られるのはこちらとしても非常に困るんだ」
「……ご、ごめんね? ちょっとそこまで出かけてくるくらいのつもりだったんだけど……」
「貴女が行く場所は必ず厄介ごとが起こるんだ。リセイ様はあまりきつく言われないかもしれないが自覚してくれ」
「ご、ごめんなさい」
しゅんと頭を下げるコウに対し、アークはマスクの下で軽く溜息を吐き出した。
ただ、彼の優しく下がった目が、それほど怒ってはいない様だと教えてくれた。
アークはコウを背に庇い、東国男を正面に短剣を構え直す。
その様子がまるで「おままごと」のように見えたのか、相手は大層愉快だと言わんばかりに大声を張り上げた。
「くはははっ! 帝国の影、と言ってもまだ軟弱な少年ではないか。笑わせてくれる!」
「……」
アークは無言で警戒し続けた。
年の所為で実力を見誤られることはよくあった。が、それを一々気にする男ではない。
「一捻りで壊れてしまいそうな間者だが……お前一人だけをアムリアの護衛に宛がったということは、意外と侮れんかもしれんな」
「あったり前でしょ、アークは強いわよ」
何故かコウが自信満々で答えていた。そのやり取りさえアークにとっては頭痛の種となる。
痛みを覚えながらも、アークはじっくり男を凝視して隙を窺う。コウとリナをなんとしてでもこの場から遠ざけ、彼女らを寵愛する男共の元へ送り届けなければならない。
鋭い目つきで睨み合いをしていると、東国男が何かに気付いた様な素振りを見せた。
「待て……、アークだと? 何処かで聞いた名だな。はて、あれは何時であったか……」
そんなことを言われて少し動揺した。
リセイの様に「表の顔」を持たない影は名を偽るようなことはしないものだ。公に出ない者にとって、その名が例え本名であろうとも、全ては偽りの姿なのだから。
アークの「表の顔」はない。今では存在しないと言った方が正しいかもしれない。彼は公の自分を失くした、いや、自分で殺してしまったのだから。
だから、見知らぬ東国の戦士に「覚えがある」と言われるなど予想外も甚だしい。
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