42話:14
「何も言わずに出てきて大丈夫だったのかな」
クルエラの村を出て直ぐの小高い丘を歩きながら、コウが遠慮がちに呟いた。
隣で歌を口ずさむリナは、抱えたバスケットを揺らしながら「大丈夫ですわよ」と機嫌よく答えた。
「でもリナ、結構酷い怪我だったって聞いたよ。こんな風に歩き回るのは良くないんじゃ……」
「そんなに心配なさらないで、傷口はすっかり塞がってしまったんですから。私、良く食べる方だから傷の治りも早くって」
リナは得意げに言った。
「クルエラの方々が教えてくださったの。この丘の先に大きな一本樹が立っているんですって。あんまり見事だから村の人たちは神様として崇めているそうよ」
「樹の神様ねぇ」
あの噂好きの村人のことだ、きっと余計な伝説でもつけて神だの仏だのと崇めているのだろう。勿論、その信仰心が真であれば崇める対象がどんな形をしていようが全く関係ないものだ。
丘を越えると、なるほど一際目立つ巨木が青空の中に立っていた。
日に当たると汗ばむ体も、木陰に入ると不思議なほど熱が引いていく。
ここでゆっくり景色を眺めましょうと、リナは大き目のクロスを広げてコウを促した。
「座ってくださいな」
「ありがとう」
二人並んで腰を下ろす。
目の前に広がるのは青々とした草原と、その向こうに小さく見えるクルエラ村。
風が絶えないのは彼女が仲間と戯れているからだろうか。
「本当に……穏やかだわ。この平和を守っているのが聖軍や神軍の皆さんですもの」
「リナは聖軍を抜けた後どうするつもり?」
「私、この国を少し離れてみようかなって……。司祭として戦場に立つことは出来ないけれど、天精霊の魔具を使えば十分治療は出来るし、どこか違う場所に行って、医療活動に参加させてもらおうと思っているの」
「帝国から出ちゃうんだ……」
「まあコウさんったら、そんなに哀しい顔をしないで。直ぐに出発できる訳ではないし、今動くとケインさんにこっ酷く叱られてしまいますわ」
「え? ケインって……、ああそっか。そうだっけ」
まだ諦めてなかったんだなあ、とコウはぼんやり考えていた。
リナの心がそちらに向いていないことは一目瞭然。今後どうなるかは彼の頑張り次第とは言っても、難しいだろう。リナとあの男との絆はそう簡単に切れるものではないはずだ。
ただ、絶対に揺るがないと信じていた想いにほんの少しでも迷いが生じた時、その苦しみから逃れようとして、人の心は簡単に傾いてしまうものだ。
誰よりも意思の強いリナがこれほど迷うのなら尚更、カイリの言動が彼女にかなりの衝撃を与えたに違いない。
「ねえ……リナ」
「はい」
「こんなことを人に聞くなんておかしいかもしれないんだけど……もし信じていた人が私を騙しているかもしれないと知ったら、どうしたらいいんだろう」
風がほんの僅かに揺らいだ。
靡く髪を押さえながらコウを見つめ返すと、今にも崩れ落ちそうな表情をしていた。
「ずっと傍で支えてくれると思ってた人が……仲間だって思ってた人が突然目の前から消えて、自分と反対の立場で向かってきたら? 向けられた目に憎悪の感情すら含まれていなかったら、私はどうしたらいい? 相手に何をしてあげればいいの?」
その人が望むものを与えてあげられるとしたら、例えこの身を削ってでも差し出すことが出来ると思っていたけれど。
「私のこの身はもう、私だけのものではない気がするの……だから」
その人が望んでいるものを差し出せないとしたら、最早私は敵になるしかないのだろうか。
「コウさんはその人のことがとても大切なのですね」
「うん」
「けれど、それ以上に大切な誰かが他にいらっしゃる……」
「……ん」
なんて子供じみた感情なのだろう。あれもこれもと欲張りになって、生温かい愛情の海に溺れて、甘えて、そのくせ最後まで見届けることも出来ないなんて。
自分でも、この心の幼さに反吐が出るほどに。
「大切な人は、何も一人とは限らないのではないかしら」
リナは舞い散る木の葉を一枚拾い上げ、くるくると回しながら囁いた。
「どんなに偉い人だって、全ての人を救える訳ではないわ。でもそれは見捨てることでも道を違えることでもない。信じ合う者同士、きっとそんな簡単に壊れる関係ではないと思うの。だって、傍に居なくても、誰に知られなくても、その人を想うことは出来るから。だから応えられないことがあっても二人の関係が終わることはないと思うわ」
傍に居るだけが守ることじゃない。
若しかしたらリナは、そうして自分の気持ちを宥めているのかもしれない。カイリの下した命令がどれ程残酷に彼女の心を引き裂いたのか、それはこの幼稚な頭で想像するしか出来ないけれど、少なくともリナはどんな形であれカイリの為を思って行動しているだけなのだ。
彼が軍に来いと言えば必死になって軍事機関で学び、自分から離れろと命じれば、その意に添えようと一人旅立つことを決意する。
優しい彼女だからそうするのではない。それしか許されないと彼女が解釈しているからで。
すれ違うばかりで酷く心が痛むなら、少し離れてみるのも良いのかもしれない。
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