37話 混沌の海《34》 +++ケルト城+++ 闇に包まれた南の砦――ケルト城を照らす月明かりはほんのりと温かかった。 それを大窓から眺めていた女婦は、誰かを心配するような優しい顔をしている。 彼女は中型の桶を抱え、今から地下牢に向かうところであった。桶には麻布と毛布を、またそれらに隠れる様に薔薇の櫛が入っている。 捕虜や罪人を捕らえる地下牢に辿り着くと、彼女は周りを注意しながらそこを通り過ぎてゆく。 やがて最後の檻の傍を抜け、更に奥へと続く扉を開いた。中へ入ると厳重に鍵をかけることも忘れずに。 しばらく真っ暗な洞窟を進むと、ぽっと明りの灯る一つの部屋が見えた。部屋の手前で桶を置き、扉に掛けられた金枷を外す。 金属の弾ける音がして、扉が開いた。 中で待ち受けていたのは、この女婦と年の近い男だった。彼は武器らしいものを持っておらず、木椅子に腰掛けて転寝をしていた。 「ちょいとあんた、何寝ているんだい」 女婦がこの男の背を思い切り叩くと、男は驚いて椅子から転げ落ちた。 「っ! 何すんだ!」 「あんたがいけないんでしょうが。ちゃんと彼女を見張っていたのかい?」 「別に見張らなくても逃げやしないって。こんなに大人しいんだか……」 「そうじゃない! ちゃんとご飯を食べられているか注意しろっていってるんだよ!」 彼女の怒声に肩を震わせた男は慌てて今朝与えた食事を確認しに向かった。続いて女婦も奥の牢に向かう。 二人が牢に着いて一番目に付いたものは、全く手を付けられていない朝食であった。パンや肉が埃を被って固まっている。 「ほら見てごらん! あんたがちゃんとしてないからまた何も食していらっしゃらないじゃないか!」 「そうは言ってもよ……何度言っても食べようとしないんだ。自害しようとしてるんじゃ……」 「それを止めるためにあたしらがいるんでしょう!? このすっとこどっこい!」 女婦は急いでカチカチの朝食を除き、夕食に出たパンを一つ皿に乗せた。 それを差し出しながら、牢の中の人間に声を掛ける。 「少しはお食べになってくださいまし……このままでは飢え死にしてしまう」 「……」 牢からは返事が返ってこなかった。これもいつものことである。 「どうして……そこまで拒むのですか? ローズ王女様……」 女婦の優しい眼差しが彼女には苦痛だったのか、牢の中に身を潜める女――ローズは「私には構うな」と冷たく言い放った。 女婦は小さく溜め息を吐く。それもローズには聞こえていないのか、彼女は知らぬ顔で上を向いた。 地下洞窟に造られた特殊な牢屋はここだけである。 月明かりも射さない薄暗い部屋で、ローズは死を待ちわびていた。 女婦は牢の隅に桶を置くと、また寝始めた男を引っ張りながら部屋を出ていった。 就寝の時間になると、彼らは気を使って出ていくのだ。そんな気遣いすら鬱陶しい。ローズはそう感じていた。 「私など……放っておいてくれ」 ローズは桶の中から毛布を取り出し体に巻き付けた。昼間は灼熱の太陽が大地を照らすも、夜になると極度に冷えるのだ。 毛布を取り出す時に、石床に落ちた櫛を拾い、ローズは小さく笑う。 「薔薇か……私はもうこの国の王女などではない。私は、この国を戦に導いた悪魔なのだから」 自分がアムリアを導いたために帝東戦が始まったとローズは重い責任を感じていた。 また、その為に父王が策を練って息子ルクードまでをも騙し、結果として父王は玉座を終われ、心根の優しい王子に一国を背負わすはめになった。 だが彼女は後悔などしていなかった。ただ、戦で荒れた国を抑える絶対的な何かが必要なのだ。 そうしてローズは全ての責任を負うため、自ら死を選んだのだ。勿論、最愛の弟には一切話さずに。 彼女は後悔はしていないけれど、どうしても忘れられない人がいた。 「出来る事ならもう一度、あの人に……」 会いたい、と言ってしまえば決意が揺らいでしまうだろう。 ローズはぐっと唇を噛みしめ、ただ暗闇の中に愛しい氷蒼を見ていた。 37話「混沌の海」 [完] ←前へ|次へ→ [戻る] |