37話 混沌の海《22》 漆黒の闇に浮かぶ五隻の船。 雨と濃霧が船を隠し、遠くでセイレーンの歌声が木霊している。 船内から漏れる灯りを頼りに周囲を見渡すも、緑青の海は黒く淀んで見えた。 商船の一番奥にある寝室は、普段は誰も使わない。元々倉庫だったそこはつい最近立派な部屋へと昇格を遂げた。 誰も入らないのは、ある人の為に拵えた部屋だからだ。 「コウ、食べるか?」 私は今、奥の寝室に居る。 呼ぶ声がする方を向くと、悔しくなるほど目鼻立ちが整い過ぎる男が寝台に座り込んでいた。 彼は艶のある笑みを浮かべてこちらを見ている。左手には果物が入った篭が、右手はコイコイと手招きしていた。 「……食べたくないよ」 「駄目だ、ちゃんと食べないと。昼も夜もまともに食事してないだろう」 彼は時々口煩い。加えて過保護だ。 「コウ──来い」 中々側に行かない私に痺れを切らし、彼は命令口調で私を呼んだ。 「わかったわよ……」 すると彼は満足げに笑った。 ゆっくりと足を踏み出して、リセイの居る寝台へ歩み寄る。 目の前まで来ると、彼は篭から葡萄を取り出した。反射的に掴み取ろうとしたら、見事遠ざけられ、私は首を傾げる。 「くれないの……?」 「ここに座って」 リセイは広げた足の間を指し示した。 「やだ」 赤くなった頬を隠すためにわざと顔を背ける。 リセイはくすくすと笑い、強情なコウの体を引き寄せた。腕の中にすっぽりと収まり居心地は良好だ。この喧しい心臓さえなければ。 「コウ、口開けて」 リセイは葡萄を一粒千切り、つるりと皮を剥く。滴が指間に伝うのを目で追うと、シーツに付く前にリセイが舌で舐めとった。 一々動作がいやらしい。 「ほら、開けて」 素直にあーん、と開けてやる。ひょいと放り込まれた実は甘くて唾液をそそり、口の中で溶けて消えた。 甘過ぎてくらくらするほどに。 近づいてきたリセイの顔に気付かなかった訳ではないが、それを遮る様にある名を口に出した。 「ユーリック、お腹空いてないかな」 行為を寸前で止められたリセイは不満そうに眉を寄せる。 それでも私は言葉を続けた。 「寒くないかな。苦しい思いしてないかな」 ぽとり。 拭い切れなかった葡萄の果汁がリセイの手から溢れ落ちた。 「ユーリックに迷惑ばかりかけてるの……私じゃ何にも出来ない。皆を犠牲にして……」 声が震えた。 無意識にすがり付いた広い胸がとても優しくて、余計に哀しくなる。 「……コウ、覚えているか?」 「──え?」 彼の物悲しそうな表情を見た。それすら綺麗で美しく、一瞬にして私を魅了した。 「西国で、俺が言った言葉だ」 必死で記憶を手繰り、やっと行き着いた答えに体が熱くなった。 彼は確かに言った。いつまでも、どこにいても私の味方であると。 「うん、覚えてるよ」 「そうでなければ困るがな」 リセイは視線を小窓へと移す。灰色の雲が闇に流れ、薄っすら白亜の月明りが漏れた。 豪雨は依然降り続く。 それでも勇気付けてくれる様に、雲間を縫って明りを届けてくれる月がとても優しく感じた。 全身で感じる愛しい女を強く抱きしめ、リセイは己の孤独を消す。 「あれは……本当は俺が満たされたかっただけなのかもしれない」 情けない。人間の交わす誓約に何の拘束力も無いというのに。 それでも縋ってしまわなければ、果てしない底に落ちて行きそうで恐かった。 「君を守る事で自分の価値を見出したり、必要とされなくなるのが恐ろしくて一々口を出したり……今から思えば阿呆な事ばかりしていたな」 恐らく、リセイがここまで心折れた部分を見せた事は、彼の生涯、本当に生まれて一度も無かったのだろう。 雲に隠れた闇の月と、傍に居る女に懺悔する彼の声は今にも消え入りそうだった。 そんな弱々しい言葉でも、コウは心の闇を消す事が出来た。自分は誰かに必要とされていると、彼が言ってくれたから。 「満た……された?」 広大なティレニアの丘。二人が始めて出会った場所。何もない空間、そこに現れた普通の少女は、特に興味をそそられる所もなかったけれど、それが逆にリセイの手足を突き動かした。 「コウと共に過ごして、満たされなかった事など無い」 「本当……? 私、自分の事が精一杯でリセイに何も返してない気がする。ううん、きっとそう。私はまだ、今までもらった沢山の幸せや勇気に、何もお返し出来てない」 「そんなものはいらない」 即答して、はっとした。漸く報われようかとしている時に限って引いてしまうなんて自分も相当馬鹿だな、と。 「……じゃあ、これから少しずつ返していくね」 コウはにこりと微笑んだ。頬にはまだ涙の痕が残っていて、僅かな光を浴びて耀いている。 もうお休み、と耳元で囁き、リセイはコウをシーツで包む。温もりと規則的な鼓動に安堵しきり、コウは静かに寝息を立てた。 夜が更ける。 誰も救われないなら、明日なんか来なければいいのに。そう思うのは彼らだけではないだろう。 今宵、 海に呑まれた者たち全てが、平穏な日々を祈っていた。 ←前へ|次へ→ [戻る] |