37話 混沌の海《19》
「それでも、私たちはここにいるのよ」
広間の入り口で、全てを見ていたフェンが果敢にも応答した。同時に商人たちの顔から笑みが溢れる。思わぬ彼らの反応にラグナは首を捻った。
「分からないかしら。私たちはね、西の賢人ヘルトから護送船の話を持ち掛けられた時、こうなることも全て受け入れた上で同意したのよ」
フェンはレイドルートでの事を語り出す。
西国の港町でコウと別れた後、ユーリックら商船は用を済ませてレイドルートに直行した。
彼らの目的は一つ。ユーリックが見た風神の開封と、精霊王アムリアの存在を知った商人たちは、古き一族リュートニアに会うために真っ先にレイドルートへ向けて船を走らせた。
だが彼らが訪れたのは、コウが東国へ向かった後だった。ヘルトは残念だったねと言いながら、不思議な縁を作るコウを褒めていたらしい。
「ヘルトさんが……そんなことを」
「ええ、あちこち行ってしまって目が離せないけど、どうしようも無いくらい愛しいんですって」
何事もなさそうに言うが、コウとしてはかなり複雑だった。ちらりとリセイに目を遣ると、やはり不機嫌なオーラを纏わせている。
コウは見なかった事にしようと視線をフェンに戻した。
「私たち商人はね、受けた恩は必ず返すの。それが命懸けなら尚更。海賊から守ってくれた小さな精霊王の為に、私たちが出来ることはこれくらいしかないから」
初めは声を震わせていたフェンだが、今はもう落ち着いた柔らかな表情になっていた。
「それに、船長は死なない」
フェンの横に居る大柄な商人が言った。ユーリックはやると言ったら必ずやり遂げる男だ。今回だって例外じゃない。必ず帰ってくるのだ、と。
コウは、無意識にリセイの腕を掴んでいた。頭にそっと乗せられた大きな手のひらが温かくて涙が出そうになる。
それを必死で堪え、彼の袖を強く握った。
「不思議なことは何もないわ。私たちは出会ったの。それがどんな形であれ、大切な人を守り抜くのが海の人間よ」
ラグナは、一介の商人であるフェンの言葉にこれ程まで興味を抱かされるとは思っていなかった。
何て生き生きとして美しいのだろう。帝都に居ては見えないものが、この自由な世界には数多存在した。
「……人間など、小さいものだ」
誰に聞かせた言葉でもないが、コウには聞こえていた。
賢者ラグナは時折強い孤独を見せる。誰も踏み込めない闇を彼は確かに持っていた。それは、リセイが漂わせる重暗い空気と似ていた。
「ラグナティウス様、もう帝国船へお戻りください。夜が開けてしまいます」
おかしな空気を切り裂く様に軍師シェーンは催促した。
窓の外は真っ暗闇だが、確かにこのまま会話を続けるのも疲労が溜まるだけだろう。
「そうしようか。……ああ! シェーンは私たちを呼び戻しに来たのだったな」
「当たり前です。遊びに来るわけないでしょう」
シェーンはやれやれと溜め息を吐く。
「別に遊びに来てもいいよ」
「あのですねアムリア、我々には遊ぶ暇などありません。明日には海の藻屑となっているかもしれないのに……」
と少々鬱気味な軍師。やはりラグナは笑っていて、その後ろでユニスティアが不安げに目を彷徨かせていた。
「私たちは帰るとしよう。リセイ、君はどうするんだ?」
リセイが答えるより先にシェーンが出張った。
「当然、神軍の司令官が商船に入り浸りで良いわけないでしょう」
「そうなのか? 入り浸る予定だったんだがな。コウ、どうする?」
私はシェーンの痛い視線を浴びた。「帝国船に帰りなよ」と言えば大正解なんだろうか。
「あの……うん、大丈夫」
「何が?」
「だから、リセイが居なくても私は──」
平気だ、と本当はこの後に続くはずだったが、途端に言葉を失ってしまった。
深い深い、緋色の瞳に魔法を掛けられたかの様に。
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