1:混沌の海06
「分かっている」
唐突な言葉に、コウは間抜け顔をした。
リセイがくすりと笑う。
「ただ、君があんまり無防備だから多少腹が立っただけだ」
「あ、ご、ごめんなさい」
それを素直に言われてしまえば後に続く言葉もないだろう。
彼は小さく溜め息を溢す。
「そんな顔をするな。俺は一般人よりは理性を保っているつもりだ。普段がそうだし、耐えられるよ」
だが、誘われて抑えられるほど人間出来ていないけど、と釘を刺すのも忘れない。
「何か、ごめんなさい。でもね、いつかはきっと、その時はリセイしか考えられない、と思う」
「思う、は余計だ、馬鹿」
こつりと額を合わせ、どちらともなく二人の柔らかい唇が触れ合う。
そう、それは昨夜の激しい求愛とは全く別の、触れるだけの優しい口付け。
コウはこの瞬間が堪らなく嬉しかった。
心の底から幸せを感じられた。
だから、失いたくは無いのだ。
たとえ何があっても。
「きっと、守るよ」
「それは主に俺の台詞だな」
「ふふ。うん、そうだね」
絆される、癒される。
ただそれだけの事すら与えられなかったリセイの荒んだ人生にとって、コウの存在は周りが思う以上に大きかっただろう。
と、突然コウが思い出したかの様に口にした。
「そう言えば、帝国の話を聞かせてくれるのよね」
コウは惜しみ無く笑顔を振り撒く。
この明るさが他人を惹き付ける訳だが、ついでに世の男共まで引き寄せてしまうから困りものである。
リセイは心内を隠そうと話に集中した。
「ああ、そうだったな。ええと、先ずはこの船が着く町について、それからカイリの城や帝都についてだな」
「帝国ってティレニアより広いのよね? 何だかわくわくするなぁ」
少女の域をちょうど抜け出た年頃だが、コウは幼子の様に目を輝かせていた。
「ね、帝国のお城ってどんなところ? やっぱり人が沢山いて、司祭とか騎士がいっぱい居るのよね?」
無邪気なコウに神軍の鬼隊長も形無しである。
「帝国の城、帝都のヴェーゼンス城のことか。あそこは確かに人も物も溢れているが、騒がしいだけだと思うぞ」
「あれ、あんまり好きじゃないんだ」
「帝都周辺は皇帝の膝元だからな。金や権力に強く縛られているとも言える。俺は軍人だが、あそこの人間と仲良くしたいとは思わない」
リセイは淡々と語る。
その様子をコウは物珍しそうに見ていた。
その視線が妙に居心地悪い。
「何だ?」
「だって、リセイがそんな風に帝国人を嫌がるなんて無かったから」
そう言いながら、彼は貴族をあまり好いていないのだと気付いた。
「何か安心しちゃった。リセイも悪口言ったりするんだ」
「そんなに珍しいか? 俺は結構いい加減な人間だと思うが」
「へー、そうなんだ。初耳」
悪戯に笑うコウの姿も、十分に彼の心を満たしてゆく。
それは柔らかい羽に包まれる様な、温かな日差しに吸い込まれる様な、不思議な感覚である。
「司祭や騎士か。確かに他よりは多いな。帝都一体は賢者達の管轄だがな」
「ふぅん、賢者って職業か何か? なんか凄そうだね」
「職……まあ上級の位だな。帝国でしか与えられない称号ではあるが。ほら、リュートニアの当主もそうだ。彼は数年前に帝国で賢者の位を得ている筈だから」
「ヘルトさんが? どうして帝国に、どういうことなの?」
「俺も詳しくは知らないが、賢者の位を持っていると国を違えても何かと有利に働くからな。リュートニアを守る為なら何だってやるだろう、あの男は」
リセイが続けようとした時、激しい横揺れが船全体を襲った。
彼は倒れ込む寸前でコウの体を支え、何とか衝撃に耐える。
揺れが収まると、今度は表から人々の声が聞こえ始めた。
「外、なんか騒がしいね」
「ああ」
リセイは寝台の上に膝を立て、小窓から外の様子を伺う。
状況を理解すると直ぐに窓から離れ、「一歩も外に出るな」と忠告したあと颯爽と部屋を出て行ってしまった。
+++++
その頃、商船に来ていた聖軍軍師シェーンは声を張り上げた。
「今の衝撃は何だ!?」
近くに居た商人にも答えられない。
原因不明の衝撃に少しばかり混乱している。
船内へ続く階段の前で膝を付く黒服の男に気付き、シェーンは彼に近づいた。
「アーク殿、覇王リセイ様はどこへ行かれた?」
「主は船室に居ります」
「アムリアも一緒に、か?」
アークは顔を伏せたままで返事はしない。
それが暗に肯定している様なものだ。
シェーンは本日何度目か分からない溜息を吐き、従者に小言を言う。
「この様な時に色事に夢中とは情けない。帝国の死神と呼ばれた覇王は何処へいったのやら」
それからは何を言われても、アークは決して言い返さなかった。
黙っているのは言葉が無いからではない。
アークは彼に反抗するだけ無駄だと分かっているのだ。
何を言おうと神軍の長はリセイであり、自分が生涯仕えるのもリセイだけだと、アークは当の昔に決意していた。
今更何を言われても、痛くも何とも思わなかった。
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